16
「自分から死んでも、死ななくても、たかが魂の一つなんだよ」
声が少し、低くなる。
ポチとアタシの距離が近くなる。
三つの頭それぞれの眉間に刻まれたシワの一つ一つ、髭の一つ一つ、毛並みがはっきりと見える。
アタシは、身の危険を感じていた。
周囲を見渡しても、他の神々は誰も居ない。ケンも、もちろん風子も居やしない。
「だから死ぬな。自分から」
ほとんど唸り声だった。
「あ、あんた泣いて……」
すぐに、三つの頭が向こうを向いた。この時ポチは……いや、冥界の恐ろしい三つ頭の番犬ケルベロスは、間違いなく確かに、落涙していた。
「お前な、ここで死神のお手伝いやってみて、どうだったよ。人生とか、人の一生にどんな感想を持ったよ」
絞り出すようにして、そう問われた。
すぐに答えられない。少し考え込まされた。
ここで見てきた、様々な人の人生、人柄、感情、欲望、絶望。
「……そうだね。なんか、人生も終わってみると二時間の映画を観終わった後みたいに、意外とあっけないというか。それはそれ、って感じる。妙に客観的な感覚になる」
ポチはしばらく沈黙してから、「じゃあ、それこそたった一本の映画なら、観ている奴がいると思わないのか」と聞いた。
そして「それこそどんなに暗い、つまらない、退屈な映画でも、上映がされている以上、誰かは観ているって」と付け足した。
「まあ、それは……アタシら、冥府の連中?」
ポチは振り向き、頷いた。
「観ている奴がいるのに、勝手に映画を止めたら、その観客はどう思う。こっちは観てやっているのに、上映している側が勝手に自分が嫌になったからって止めて許されるのか。観に来てもらっている以上は、最後まで作品を届けるのが、命をもらったものの筋ってやつだろう」
身体が震えていた。震えながら「もううんざりなんだよ……おまえらみたいな可能性も未来も時間もある若いのが、まだオープニングが終わったばかりくらいのところで勝手に人生辞めるのを見るのはよ」と、掠れた声で続けた。
アタシは心臓がドキリとした。
心臓なんて無いはずなのに。動いていないはずなのに。
「……ごめん。生きてる時のアタシは、そこまで考えられなくてさ。軽率だった、今は本気で反省してる」
「おまえ、生きている時には未来って名前だったんだろ」
「うん。そう。アタシ、小此木未来って名前だった。……すっかり忘れかけてた」
「まだまだ未来ある年齢で首つりなんてしやがって。お前の未来は、こんな有様かよ。自分でも笑えてこないか? そんな名前と健康で容姿端麗な体を親に貰ってさ、たった十六で死ぬ。これがお前の一生かよ」
「笑えるよ。すごく。でもどうしようもないんだもん。仕方ないじゃん」
「……お前はなんでも早とちりするタイプらしいな。自分が死のうとした時の事をよーく思い出してみろ。お前は本当に首を吊りきったのか。自死をやり遂げたのか」
その質問は全く予想していない方向から飛んできた、変化球だった。
「えっ?」
「お前が、死のうとした時の事を思い出せ。今まで思い出さないように蓋をしてきたんだろうが、今ここで思い出せ。それが自分の行いに対する罪滅ぼしだ。俺は神だ。お前の死を扱うのが俺の職務だ。嫌とは言わせん」
アタシは目を閉じて、記憶の扉を必死で叩いた。
自転車の荷台に立って、首を吊ろうとして、暫く雨に打たれながら夜空を眺めていた。だんだんと体温が低くなり、上を向き続けたせいで眩暈にも襲われたのと足元の悪さで、意図しないタイミングで首を吊って死んだ。
この内容をそのままポチに言うと、「まあ、こっち来てみ」と審議台に連れていかれた。
主神ハーデースは今は居ない。彼がいつも韓国ドラマを観たり、渡冥者に何かしらの証拠資料を見せたりする時に使う六十インチくらいありそうな大きな画面の前に座った。
「いいか、観てろよ」「う、うん」
画面にはあの日、アタシが首を吊った公園が映った。
日付の表示も、まさにあの日のあの時間だ。今、まさに自ら命を経とうとしている自分の姿が客観的にそこに映し出され、それをこうしてじっと観るのは、猛烈な羞恥心を掻き立てられる。なんだこれは、死んだ者に対する新手の羞恥プレイか。自分の死に様を見せるなんて鬼畜か。
「これお前だ」「見りゃわかるよ」
映像の中には寂しく雨が降っている。
自転車の荷台の上に立って首に縄を掛け、その輪っかを掴んだまま、雨にサンサンと打たれながらも、星の無い鉛色の夜空を見上げるアタシ。
しばらくして、アタシの身体が震え始め、体幹がブレ始めた。この辺りから眩暈が始まった気がする。
そして――画面の端にそっとミオが降り立った。
「そら。お前の頼れる姉さんだろ」「こんなに早くから来ていたんだね……さすがミオ」
ミオはアタシが首を吊るのを今か今かと待ち構えている。アタシの頭がぐわんと揺れ、不安定な足元を今にも踏み外しそうだ。
その時だった。
「未来! ストップ! 未来!」
大声でアタシを呼ぶ声。
思わず目を見開く。
画面の端から滑り込むように駆けてきた風子が、アタシの身体に飛びついた。当然、自転車は倒れ、アタシの首に掛かった縄は容赦なく首に食い込み、締めあげていく。風子はテルテル坊主のように吊られ、くるくると回転するアタシの身体を見上げて震えながらも、立ち上がり、必死で地面に下ろそうと奮闘していた。
「風子が……?」全く頭が追い付かないアタシに向かって、意味深にうなずくポチ。「これ、あんたの友達だろ、間違いないよな」と迫る。
「う、うん。なんでこんな時に居たんだろう。全くアタシもわからないんだけど……」
「友達だったっていうんだから、何か察知したんじゃないのか。としか俺も言えないけどさ。それでなきゃ、たまたま散歩の途中に偶然にも哀れに濡れそぼっているお前を発見したとか。まぁなんにせよここへ来た経緯はさすがに俺らでもわからないけど、でもアンタを助けようとしてるよなこれ、どう見ても」
画面の中では、風子が必死にアタシの身体を持ち上げようとしたり、自転車を起こしてそこにアタシを立たせようとしたり、精一杯の姿が映し出される。ミオはただ呆気にとられたようにその場でおろおろとしている。もしアタシがこの場に居合わせても、どうする事もできずに同じように困惑するだろう。
すると、画面にポチが現れ、木の枝に降り立つと、アタシが結んだ縄の根元を噛み切った。
地面に落ちたアタシに風子が呼びかけ、慌ててスマホで119番に通報する。彼女にはポチとミオの姿は全く見えていないらしい。見えていたらこんな平然としていられるわけがないからね。
「何してるの……」風子にしてもポチにしても、どちらも信じられなかった。何から、どこから疑問を消化していけばいいのか。
「どうしてこんな、助けるような真似するんだろ。アタシは死のうとしてたのに」
「俺は仕事しただけ」
「何、仕事って」
ふいに、画面がパッと消えた。
「……え……? いつの間に?」
背後に佇んだ主神ハーデースが、何かいたずらっ子のような、それでいてそれを叱る親のような、なんとも言えないまなざしでアタシを見据えていた。
しかし彫りの深いその眼の奥には、太陽よりも暖かい光があった。
そしてその眼のまま「おまえが、更生してくれると思ったからじゃが?」と、静かに答えをくれた。
「更生って何?」
主神は目を逸らしてフッと小ばかにしたように笑うと、「読め」と一枚のパルプを差し出してきた。
【業務連絡(必読)】
*全ての命は死後に肉体が滅ぶと、その魂は冥界へと呼び戻され、そこで直ちに死後の運命が采配されると地上で言い伝えられて久しい。
*仏教のみに観点を当て、諸説・俗説を渉猟し意訳した場合、この世での行いが良かったものは極楽へ、そうでなかった者は地獄へ送られると考えられている。
*しかしそこに於ける解釈は国、民族、時代により様々であり、一概に正解は無いとされる。また、臨死体験は無数に報告がされているがいずれも信憑性に欠け、実際に死後の世界を見、経験した者はかつて一人としていなかった。冥界と霊現象、その他スピリチュアルな事象の関係性は切っても切れない関係にあり、様々なエンターテインメントや催し物、サブカルチャーの題材とされている。
*人は誰しも、生きている間に一度は死を考える。ところが極限まで死を意識する者はその中の僅か数パーセントにしか満たず、いずれ自分にも訪れる死について曖昧な解釈を持ったまま惰性の人生を生き続けているのが現状である。
*また、一部の特異な思想を持つ者、健全な思想を捨てた者は、あろう事か自らその命を絶つという蛮行に及ぶ例も見られ、冥界としての業務に多大な悪影響を及ぼして久しい。
そのため、今期から、自殺を企図したり未遂を起こした者の中から選任した幾つかの霊魂に下級死神として冥界での業務を一定期間経験させ、背景を説明したあとに再び生に戻らせ自殺抑止を図る、冥界体験プロジェクトを発足する運びとなった。
以上を踏まえ、冥政府としては、早急且つ同時多発的に打開策を講じる必要に迫られ、非常に不安定な中での運営となる事を覚悟して頂き、諸神の更なる精進を期待すると共に、この未曾有の大恐慌を打破すべく、奮起して各々の職務に励む事をここに期待する。
冥政府最高権力者・主神ハーデース
「なに、これ」
手が震える。鳥肌がゾワッと立った。