13
ポチが背後に現れた。
「げっ! お前!」
「てへぺろ、つって」
「お前まで来てるのかよぉ! かわいくねー」
「うるせえ。ちゅちゅちゅ。そう、使いとは俺の事よ。せっかくのんびりしてたらハーデースのじじぃが俺を飛ばしやがったんだ。お前のせいでな。せっかくの自由時間が台無しだぜまったくよぉ」
ポチは三つの頭全部が不機嫌面をしていたが、内心はそこまで怒っていないようにも感じるのが違和感こってりマシマシだった。
自分がそう思いたいだけかもしれないけれども、あながち勘違いでもなさそう。
そしてミオの目は、少しだけ動揺しているように見える。どことなく、二人ともの挙動に引っ掛かる所があった。だけどそれを聞く気には、なれなかった。
「さぁ、早く帰るよライ。ハーデースさん、心配してたから。すぐに謝りに行った方がいいよ」
あのじじぃ、心配なんて出来る器だったのかな。
すごく、後ろ髪を引かれる。
「うん、分かった、帰る……」
いいところだったのに……。
「オイ新入り。お前もいきなり大目玉だな。背筋もしゃんと伸びるだろうさ。ちゅちゅちゅちゅちゅちゅ。誰かが怒られるとこ見るのが大好きなんだ。褒美にお前らの説教シーンをしっかり鑑賞させてもらうぜ。録画モノだなこりゃぁ。ちゅちゅちゅちゅちゅちゅ」
アタシとケンは、お互いに燻った感情を抱えたままミオとポチによって冥界へと強引に連れ戻された。
**********
「……うぅ、あれ」
目を開けると、自分の巣の中だった。
「なにぃ……おかしい……夢ぇ……?」
目覚めは悪くない。
というかそもそも寝てはいないから、気を失っていたのか……。
「またストレスが祟ったんかな、きっつ~……」
今までのは全部、気を失っている間に見た夢か幻覚だったのだろうか。
いやに現実味のある夢だった。
「へえ? なにこれ?」
鏡を見て、驚いた。目が泣いた後みたいに、赤らんでいる。その上、髪がじっとりと濡れているのだ。
「……うそだ……うっそだそんな……」
仕事に向かうと、主神ハーデースはテレビではなく珍しく下界を見下ろしていた。
「お、おはようござっす……」
一応、昨夜の事には触れない方向で。
いちいち自分から爆弾に着火する必要も無いってのは大人になった今なら分かるわよベイビー。
「あぁ、おはようさん」
今日はこちらを見ないな、じいさん。なぜだ。
いつもはちゃんと目を見て挨拶してくるのに、何だかザワザワするから逆にやめてくれそういう、怒ってるアピール的な匂わせはさ。
思春期女子かよ。臭。
「は~。今日もたくさん居るなぁ~。忙しそうだなこれは」
今日の分の渡冥者帳簿を取り、そのまま下界へ――「ライ」
…………ごくり。「はい。なんだろーかー」いや不自然だなマイセルフッ。
主神は無言のまま、じっとアタシの顔を覗き込む。
この彫りの深い顔つきの主神にはきっと何もかもお見通しで、頭の中まで見透かされているような気さえした。足が竦む気もした。
こういうのを威厳とか風格とか言うのですなユアマジェスティ。
「いや、やっぱいいや。気を付けて行ってきなさい」
「お、おぉぉうりょおかい」
その場は、それで終わってしまった。
一軒一軒の仕事をケンと片付け、本日最後の六件目に取り掛かる。
・湯田総一郎、五十六歳。無職。商社マンとして真面目に三十年間にわたり勤務していたが、一年前に大腸ガンが肺に転移した状態で見つかる。
余命半年と言う診断結果を告げられるも、冥界の都合、さらにその生い立ちに対する特別優遇ボーナスとしてそれぞれ三ヵ月が余分に加算され、昨日にその期間を満了し死亡。最後の言葉は「お花ありがとうね、ご飯食べた?」
……ふむ、別に珍しい案件じゃないな。しかしこの後に直面する現実というものは生々しく、あの世でもこの世でも等しく恐ろしかった。
場所は、某有名大学病院の集中治療室となっている。
病室の入り口まで来た時、ケンは立ち止まって何か逡巡するような様子を見せた。「マジかよ」と微かに呟いたのも聞こえた。こちらの「ねえ、どうしたの」という問いに反応するように、アタシの手から帳簿をひったくり、齧り付くように見回した。
そして、最後のページを指差して、「……俺の、親父」とひどく動揺したように言った。嫌というほどの真顔で。
「え!? あんたの、お父さん!?」黙って頷く。「癌……って」
「あぁ。そうだよ」
「い、一年前って……」
現世の時間で換算すると、ケンと付き合って間もない頃だ。
「まさか、知ってて、アタシに隠してたの……?」
苦々しい感情が胸一杯に滲み広がって行く。
「別に言う必要無かったから」
そう言うと思ったよほら。
「なんで、別に言ってくれりゃよかったのに! 秘密は守るし、うちだって家庭環境最悪だったから何かお互いに分け合えたはずだよ。もうそういう事を隠すところも最低だよあんたって」
「知らん、今更そんな事言われたって、しゃーないだろ。俺、中に入れん。親父を見たくない。お前だけで行ってくれ。ここで待ってるから。別の仕事で埋め合わせはする」
「……はぁ。分かったよ。大人しくしてて、行ってくるから」
この瞬間、確信が持てた。
いや、違う。
夢じゃない。
ケンの態度が、夢の中と変わっていない。
つまり、夢なんかじゃなかった……。
アタシはなぜか、自分ごとでもないのに妙に気になって「親だろ。本当に行かなくていいのか」と確認するように問いかけていた。ケンは猛スピードで何かを考えているような仕草を見せながら懊悩し、やがて「後で行く。行くから、ちょっと待ってて」とだけ告げて、病室からトボトボと離れていった。
心の準備が無いと、親の死に際になんて立ち会えないだろう。ましてや、自分たちはまだ多感な年頃のままだ。無理もない。
アタシ一人で病室内に入ると、頭髪が無く、信じられないくらい青白い肌をした中年男性がたくさんの医療機器に囲まれて横たわっていた。心図計の数値を見る限り、もう息を引き取る寸前だ。
男性を取り囲む医師、看護師の表情にはもはや焦り、緊張のたぐいは一切無く、やるべきことを全てやり切り、あとはもうただ黙々とその瞬間を見守る為に立っている。
やがて、医療機械が心肺停止のアラームを鳴らす。
「油田さん、死亡確認です」
医師の一人が言った。一同が「ご愁傷様です」と唱える。
別の医師が鼻からふーっと息を抜きながらネクタイを緩め、「なんだかなあ。気の毒な人だなと思うよ。年頃の子供が居て、まだ若いのにさ――それで、この人のご家族の方はどこに?」
周囲が一瞬、沈黙してから、
「まだ到着していないみたいですね」
と看護師の一人が困ったような顔で応える。
医師は何か心当たりのあるような様子で顎をなでながら、小刻みに頷いていた。
「うーん、そうか。なるほどね。家族にも看取られず、か。ほんと、気の毒だ」
中年の一歩手前くらいの医師は、一人でしきりに頷きながら、病室を出ていった。それに続いて他の医師・看護師も出ていき、アタシと中年男性だけが病室に残された。
笛を取り出そうとした手が止まる。
目の前に横たわる、話したこともない、なんなら初めて顔を見た元彼の父親を目にして、妙に何かを悟ったような気持ちになった。
これまでに何十人、いや、もしかしたら何百人という人間の最期を見て、魂を預かってきた上で思った事は、
――この世に不幸な人は、確実に居る。
ということ。
いちおう、自分なりの経験、根拠に基づいた感想だ。不幸の末にボロボロになって、こうして孤独に亡くなる人が、実際にはものすごい数、居る。本人もまさか自分がこうなるなんて、おそらく思っていなかっただろうし、分かっていたとしても願い下げだろう。でも現実は容赦なく、一方的にやってくるのだ。肉体はおろか、意識・魂までもを蹂躙して、厳然とその営みを続けるのだ。そこには慈悲も憎悪も無く、ただただモノクロな物理法則が憮然と横たわっているだけなのだ。
アタシは幸せだった人間も、そうでない人間も、善人も、悪人も、今まで総じて数百余りの魂を取り扱った。
まだ新神のアタシが、この風呂場の湯船より浅い経験からでも語れるたった一つの事実は、人は死ぬ時、必ず力が抜けているという事。体ではなく、心の力。アタシのような自殺者は今まで三十人くらい取り扱ったのだが、首を吊るなり電車に飛び込むなりして苦しんで死を遂げた者も、最後はやはり力が抜けて、正面から死と向き合う事が出来ていた。そうせざるをえないしね。
「…………」
アタシが首吊りの体験者だから言える事だが、自ら死を選ぶとはいえ、そのどこかには必ずと言っていいほど〝生〟への執着が残っている。
「幸せだったのかな…………この人」
どんな形かは人それぞれ、例えば後悔だったり、思い出だったり、心配事だったり。どんなに思い詰めようが、人は生への感情的呪縛から一〇〇%足を洗う事が出来ない。就任間もない頃、たまたま居合わせたベテランの死神から聞いた話では、ある練炭自殺者は涙を流しながら家族の写真と遺書をその手に握り潰して果てていたらしい。
――ある有名な話がある。
人は自分の死が分かっている場合、そこへ向かうにあたって、ありったけの楽しみを味わってから死ぬという。
この世での思い出かどうかは知らないが、とにかく吸えるものは全て吸い尽くすんだ。
そのベテラン曰く、また別のある女性自殺者は東尋坊へ向かう前に、冷蔵庫の中にあった大量のティラミスを全て平らげ、無いものとしていた最後の預金を下ろして高級カシミアコートを購入して高いヒールで街を歩き、その日の深夜、言葉にはならない恍惚の表情で大空へ飛び立った。
死装束は、いつか機会があれば、と思っていた憧れの品だったのだ。
またある男性は、かねてより見たいと思っていたアニメDVDを一四時間ぶっ通しで鑑賞し、風俗店で豪遊した帰りの足で最終列車の通る冷たい線路に身を横たえた。線路の錆びた鉄粉の匂いと血の匂いは同じ匂いだったと語ったらしいが、それはアタシも似たような感想を持ったものだ。
結局、生に終止符を打つと言いながら、最後に生をおもっくそ愉しんじゃってるのがポイント。
皮肉な事に、それは今まで普通に生きている事の楽しみよりも何倍も楽しく感じられるそうだ。証言したのだ、当事者たる彼ら自身が。
そんな事があっても、いずれの者も己の死と完全に向き合い、それを受け止めた。
消化不良を起こしながらもなんとか飲み込んだ者もいたし、すとんと腑に落ちた者もいた。十人十色だ。
なぜ、人は普段の生活を本当に楽しむ事が出来ないのか。
なぜ、人は生きている時に死を考えられないのか。
なぜ、人は生きなければならないのか。
なぜ、人は生まれたのか。
なぜ、人は死ぬのか。
死神でも、それは説明のつかない事だし、もしかしたら知らなくてもいい事なのかもしれない。
廊下の方がやけに騒がしい。
何事かと覗いてみたら、ケンの母親と妹、弟たちだった。ひどく懐かしい。数えるくらいだが、生前に何度か顔を合わせた事がある。
「いっちゃん!」
久し振りに見たケンの母親が、治療室の窓に貼り付いた。そして扉を横にスライドさせて遺体に飛びつく。そういえば、ケンの家族は父親の事をいっちゃんとあだ名で呼んでいた。こういう家庭は自分の中ではとても珍しいと思っていたが、案外そうでもない事は現職についてから知った。
変な上下関係みたいな、親が絶対権力みたいな感じではない、家族全員が友達みたいな家庭って、憧れるよ。
「どうしよ、いっちゃん、死んじゃった……」
母親はその場に泣き崩れ、一緒に入室してきたベテランらしい看護師に背中を撫でられている。小学生の妹と小学生の弟は廊下から、どんぐりが蕩けた様ななんともいえない目でじっと病室――こちらを覗き込んでいる。入室してこない。きっと、父親が死んだという意味が未だによく分からず、ただただ不安で怖いのだ。子供って言うのは、そういうものだから。
「あぁ、嫌なもの見ちゃったなぁ~」
ケンは駆け付けた家族とすれ違ったのかな。こんな時に何してるんだろう。
アタシはとりあえず、誘霊笛を吹いた。すぐに、細くて弱々しい魂が浮き出てきた。肉体にあまり粘着せずに剥がれてきたあたり、結構吹っ切れているんだろうな。
笛を仕舞い、深々とお辞儀をする。いつもより少し、長めに。
「お長い様でした。生涯期日を満了されましたので、お迎えにあがりました」
いっちゃん魂は、いかにもサラリーマンといったかしこまった物腰で静かに、深く頷いた。
というか、自分に対してあまり驚きも疑問も感じていないようだったので、それもそれで少しモヤモヤがある。
「あぁ、そうですか。いよいよ死んでしもたんですね、僕は」
少し薄ら笑いを浮かべているようにも感じた。それは、あまり意味が分からなかった。
「はい。ご愁傷様です」
死んでも尚、人柄の良さが消えない良い人だ。アタシみたいに、役職に就いたら苦労するぞ。いっちゃん魂は改めてアタシの顔を三秒ほど見つめた後、何かを思い出しそうにフワフワと蠢いた。
直後、窓の外に視線が移る。
「えぇ……アキコ! ユウタ、チカ!」
駆け出し、そのままドアの取っ手に掛けようとした手は壁をすり抜けて、一瞬で廊下に臨場する。
「あれ? あれれ? うわ、なんだこりゃ」
「ああ、気を付けて下さい、死後慣れしてない人はいつもやらかすんです。今は肉体が無いから物理法則はいくつか適用外になるので。パニックにならないでね」
普段なら笑い話で済むところだが、今回はちょっくら特殊なケースだ。知っている人たちばかりで、感情移入してしまう。
目の前で自分の死を哀しむ家族を抱き締めてやれない気持ちとは、如何ほどのものだろうか。ましてや、こんな情に厚そうなパパさんだ。見てられないよ。
「そんな、そんな……そんな、そんなぁ」
奥さんに駆け寄って腕を伸ばしても、その手は愛する人に触れず、身体をすり抜けてしまう。
映像に向かって手を伸ばすように、物哀しげな両手は虚空を彷徨う。
不謹慎だけどあえて言わせて。幽霊みたいだな、と思わされる光景。
「か、家族を残して僕だけ死ぬなんて……ぼ、僕は……最低の父親になっちゃった……」
いっちゃん魂まで、その場に崩おれてしまう始末。
「お、親父さんは何も悪くないですよ。気持ちは痛いほど分かりますけど、ここは一つ、ふん切りの付け所でもあります。死んだ人間は、絶対に生き返らないように冥界で決まっているんです」
いっちゃん魂の背中を擦るアタシの隣では、奥さんの背中を看護師さんが擦っていた。
同じ空間にいるのに、すぐ隣にいるのに、見えない。
シュールというかなんというか、とにかく時間が無い!
ケンは病室の入り口にいた。こちらをを遠巻きに見ているだけで、何を考えているのかわからない。焦りも手伝って、段々と腹立たしくなってきた。
「親父さん、悪いんですが時間が無いんです。長居は無用です、急いでください」
「はい……」
!
立ち上がって、ケンと目が合った。
その瞬間、いっちゃん魂のオーラが変わる。
「お、お、お前、おい、健介!! 何してるんだ!?」
いっちゃん魂は上擦った声をさらに三六○度ひっくり返した。
ケンは、それを合図にしたように、何事も無かったかのように平然と病室に入ってきた。
「死神やってる。見ての通りだ」と怠惰な返答を携えて。一度見たら忘れない、タナトス級死神の悪趣味な制服に身を包んだ死んだ息子を前にして、父親は目を白黒させるので精一杯だろう。理解するとかいう次元を超えている。
「し、死神って、どうしてそんな……死神ってお前……なぜだ。なんでそんな悪いことしてる?」
「ままま、コレには深い訳があるんで、とにかく動いて下さいお父さん!」
マジで時間押してんの!