12
――やっぱりアタシは泣いていたらしい。
とめどなく溢れる涙の中に浮かび上がったのは、どこか懐かしい元恋人の顔。
「……全部思い出したよ。全部覚えてるよ。忘れなんてしない」
アタシは健介を睨み付けてはっきりと言ってやった。
「それくらいの事を、俺はしたもんな」
それだけだった。
許せなかった。
かっこつけたいのかな。この期に及んで。
「今更なんなの。こんな、絶対に後戻り出来ないところまで来たんだよ。お互いに馬鹿だからこんな事に……アタシらはもう死んじゃってるんだよ? もう絶対にやり直しなんて出来ないんだよ、わかってるの? それで、何の巡り合わせか二人とも極楽へも地獄へも行けずに惨めに死神になんてなって。何もアタシらには残ってないのに、今さら何を……」
健介は黙って何度も頷いていた。アタシの背中に手を回した。必死で突き放そうとしても、健介の力に敵いっこない。
そして、鼻からフッと息を吐いた。
生前、私を抱き締めるとホッとするからという理由で、よくやっていた。
二人がまだ、健全で幸せだったころ。脆弱で甘美な夢うつつのあの頃。
本当にあの頃のまま、だけど何かがずれて戻らなくなってしまった健介が、目の前で、自分と重なっている。その現実が、他の何よりも痛くて、もどかしくて、怖かった。自分は本当に死んでしまったという実感よりも、後戻りはできないという絶望よりも、健介が再び自分を抱き締めてくれたという事が、心の中で大きく光っている。
アタシはゆっくり力を抜いた。
強烈な人間臭さの中で、健介は私の羽根を優しく、繰り返し撫でた。
「黒い翼だって、手入れをすれば立派な装飾品になるような気がする。どんな状況にあっても、頑張ってやっていけるように努力するのが、大事だと俺は思ってる。少なくとも、俺は今もそうして行動してるし」
耳元で……その年不相応な仕草が、かつての私は大好きだったような気がする。
キザったらしくて、気取り屋で、クサくて。
――ペテン師みたい。
それがカッコイイなんて思っていた。
子供だね、ほんとに子供だね、なんてからかいながら。それでも自分達が一番イケてるって本気で思っていた、ついこの前の話。
人間の臭いがより一層強くなった。
普段は平気な健介でさえ、感化され始めた証拠だった。
「い、いい加減にして。健介はアタシの事を捨てたじゃん」
このままじゃ、何かをまた失いそう。
生来の弱者根性がまた見え隠れし、自分から不幸の種に水を撒く、不器用な天邪鬼。
アタシのすっかり乱れてしまった羽根を、好き勝手に弄ぶ手を掴む。
健介は私の顔を見た。さきほどより赤く充血した目で、じっと。
「許してほしい。本当に好きだった」
何を言ってんの。
「あんなサイテーな事したあんたが、今ごろ彼氏面なんかするな! 気持ち悪い!」
なんとかしようにも、男の力には敵わない。
雨が降り出した。
いきなり、抱き締めた。正面から、上半身全体を包み込むようにして。
「んんっ! 放せ、この、浮気男! ペテン師! アホ!」
「……」
「離れろ! あんたアタシを捨てたクセに、今さらこんな芝居なんかに擦り寄らねぇよ!ばか! ばかぁ!」
「……」
脇腹を殴っても、一瞬だけ力が弱まるだけで、体は離れなかった。
「んああああああ放せえ!」
脛を蹴ったり、腕を引っ掻いたり、出来る抵抗は全てやった。
それでも放さなかった。
その執念が怖ろしく、一方でどこか快感だった。
情念は麻薬。
恋は幻。
後悔は癒し。
自分でも何がどうなっているのか、自分がどうなりたいのか、どうしたいのか、全てが狂って心許なくて。
誰かが火の点いた蝋燭を自分に近づけたら、一気に二人とも炎上してしまうような感じがした。
二人でずぶ濡れになりながら、五分くらい、意味の無い膠着状態が続いた。
温かい雫が一つだけ、私の項を撫でていく。
健介の体が小刻みに震え始めた。
「っ!?」
一瞬のスキを見て突き放すと、すぐさま顔を背けた健介は間違いなく泣いていた。
「ちっ……なんでこんな時に雨」
そう言って、顔を顰めた。
こういう無駄な抵抗も、かつてと何ら変わりない。不器用だ。泥臭い。とことん、ぶきっちょなその生き様。
誰かを不幸にしても気付かないところは、もう病気だね。
一緒に泣ける映画を観た後、「眠いのを我慢して観たから、目が疲れた」って、泣き腫らした顔で言うような……ズルいクズ男。
なんでそんなに、弱みを見せないの。こっちが、しんどくなるからさ。
「どうして泣いてるの? か弱い女の子をその場に捨てていくようなバカ男のくせに、泣くなんておかしくない?」
かつてなら秒速で否定をするはずが、今の健介は否定しなかった。
「…………」
雨足はどんどん強くなる。次第に風も出て来て、横殴りに体を打ち始める。大木の葉がザアザアと怒ったように喚き始め、二人の心を煽る。
「ねぇ、何とか言ったらどうなの。図星でしょ」
雨粒に負ける草花のように頭を垂れていた健介は、口を開いた。
「ごめん未来。俺、すごく後悔してる」
「……」
そんな事言われても。
「お前にあんな態度をとった事もそうだし、その後に何もケアしてやれなかった事も、本当に申し訳ないって、あの時からずっと思ってる」
「じゃあ! ……じゃあ、おかしいよね。そんな、今になって泣くくらい後悔してるのなら、あれから一度でも、審議台で再開してから、何か声を掛けるのが普通なんじゃないの? それを知らんぷりしてた以上、悪いけど演技だとしか思えない」
弱り切ったかつての恋人の言い分を、雨に乗せて撥ね付ける自分がいた。
降りしきる懺悔の言葉を、まるでワイパーが水を切るように、何度も何度も跳ね除ける。その先に見える何かを覗き込もうと目を凝らしても、すぐにまた懺悔の雨が一杯に降ってきて視界が滲む。その繰り返し。
「演技は、してた」
「……でしょーなあ」
この感触。覚えのある手応え。
だって何度もこういう事、あったよね。
男って進歩しないなぁ、本当に。
「あの時だ」
「あの時?」こちらの気勢を削がれた。思い出したように言われたもんだから、こちらとしても多少はびっくりする。
ここで、少し冷静さを取り戻してきた。姿勢を直す。アタシが立ち上がると、健介も追うようにその場に立ち上がった。
「あの時って、なに? どの時?」
アタシが一歩踏み寄ろうとした瞬間、「ライ! こんなところで何してるの。すっごい探したんだよ!」と意外な声が邪魔をした。
「もう大変な想いさせないでよちょっと!」
大粒の雨を落とす真っ暗な空から、ミオが降りて来たのだ。
「ミオ!? なんで、どうして?」
とことん間抜けなリアクションになる。
暗闇に浮かぶ犬の顔は、仲間と分かっていても、かなりの迫力ですがな旦那。すごいオーラを感じやすぜ。石火矢衆はここへ集まれーって感じよ。
「どうしても何も、てんやわんやだよ! ハーデースさんが二人の事を必死に捜してるんだよ。私がライの様子がおかしいってハーデースさんに言ったら、使いの者を向かわせたんだけど、居なかったとかで……それが今日の天気担当の神だったから急に雨を降らしちゃったりとかで、とにかく大変なんだよ! 向こうは今、ちょっとしたパニックになってるんだから!」
あの白い山犬よりも女子力高い犬が取り乱し気味に説明する。
「そんな……嘘でしょ……」
仕事も無いのに下界に降りて来た事がバレたら、色々とまずいんですけど。
「ちゅちゅちゅちゅ。余計な手間をかけさせやがって。見つけてみたら夜中に男とデートだなんて、どう借りを返してもらおうか」