10
「ちくしょう、どこへ行ったんだよもぉ! 仕事増やし過ぎだろあのドジ男!」
ったく、着任直後から面倒ばっかりかけやがって。許すまじ。
一個の神として認められたら認められたで、出来損ないのお守りとかめちゃくちゃ大変じゃねぇか。奴は疫病神だろこれ、美味い事言っちゃった、唐揚げ奢って。草。
神様っていうけどさあ…………うん、実態は生きている時と何も変わらないんじゃねーのかこれ。
むしろ生きていた時の方がワンチャン楽だったんじゃねーのかっていうね。大人しくJKしとけばよかったんじゃないだろーかっていうね。もう何を言っても後の祭りだけどさ。
あてもなく、とぼとぼと街灯の下を歩いていると――居た。
前方でフラフラと歩く、男にしては華奢な背中。
何してる。どこへ行く。
こんな場所で。こんな、居たくも無い嫌な場所で。
尾行を続けること約二十分、奴は一軒の家の前で立ち止まった。
街灯に照らされた表札には【小此木】の文字が浮かぶ。というか、彫られているから浮かぶって表現は変か。じゃあなんだ、凹む、か。あれ、それもなんか変だな。
「………………………………」
こんな夜分もお構いなし、家の呼び鈴を鳴らし、出て来た家の者と何かを話し始める。
アタシは更に接近を試みて、路駐している軽トラックの陰に身を隠した。そっと耳を澄ませる。
夜のしじまを割いて、潜めた声が風と共に流れて来る。
「こんな遅くに、わざわざゴメンなさいね」
「いえ、僕の方こそ夜分にすみません。仕事してたらこんな時間になってしまいました。ご迷惑おかけします」
「いいえ。いいのよ、来てくれるだけでも。それよりあの子は、どう? 元気にやってるの?」
戸口に立つ主婦は、心配そうに尋ねた。声音からは幼い子供を持つ母親のような、子煩悩のような、そんな印象を受けるような気がする。
「はい。変わらず、活発に、元気に過ごしてます」
なぜ、この家の人間と親しげに話しているのだ。
そして会話の内容はすっかりそのまま、アタシにも理解出来る内容だった。
「また自棄になったり、自分を追い詰めたり、そういう事してケンちゃんに迷惑を掛けたりしてないかしら」
「大丈夫です。むしろ、僕の教育係として毎日奮闘してくれています。結構教え上手ですよ。今日も、アホな僕の為に一生懸命になってくれました。頭が上がりません」
「まぁ……あの子がケンちゃんに物事を教えるなんて、何だか可笑しいわねぇ。どう考えても、立場が逆でしょうって私、笑っちゃって……」
寂しそうな笑い声。
なんて寂しげな。
今まで観たどんな映画やドラマの登場人物よりも、寂しげ。
笑い方ではない。
笑いが引いた後の空気、これで分かるのだ。
無理をしている人は――独特の尾を引く余韻を残す。
周りの酸素の濃度を薄めてしまいそうな、濃く暗い余韻を。
……ったく、嫌な汗かかせてくれる。
そもそも、アイツもアイツだ、なにが「結構教え上手ですよ」だよ、なんで上から目線入ってるのよ、ちゃんちゃらおかしいでしょその感覚!
「良かった。あの子、向こうへ行ってからも今までと同じ調子だったらどうしようって、すごく心配してたのよ。いつの頃からか、人とめっきり関わるのが下手になっちゃってね。ぶっきらぼうだったでしょ。よくこんないい子の彼氏が出来たものね。私もすごく嬉しかった。やっと、あの子も心がいい方に向かってくれて、明るくなるのかと思ったけど、まあ、神様は残酷よね。あの子、本当は何も悪くないのにね。ごめんなさいね、巻き込んじゃって」
潜めた声だったが、一語一句も聞き漏らさずに聞き取れた。
無念さと、もどかしさ、まだ煮え切っていない、割り切る事ができないでいる、そんな苦々しい感情がこれでもかというほど、伝わってきた。
人間の匂い。
凄まじく生々しく濃厚な人間の感情の匂いがアタシの鼻を容赦なく突き刺す。
しばらくの沈黙が挟まった。
主婦はやがて声を押し殺し、泣き始めたらしい。途切れ途切れ、すすり泣きの声だけが夜の住宅街に響いている。
「おばさん、大丈夫です。あの子は元気でやってます。安心して下さい、それなりにやっていけてますし、僕としては安心です」
アイツもどうしていいのか分からないのだろう、珍しく必死だ。生前にあまりこういう姿を見せなかったのに、死んでからこんなに必死にならなきゃいけないなんて、いつかどこかで聞いた事のある〝業〟というものは実在するんじゃないかと思えてくる。
結局のところ、自分が本当に直面して乗り越えなきゃいけないものっていうのは、死んで逃げ切ったと思っても、死後に霊魂となってからでもその義務は消えないんじゃないかと。
何か、この世界の本質に一歩近づいたような気がして、心が宙に浮いたような変な感覚に浮かれて油断してふわんふわんしていた、その時だった。
近所一帯に響き渡る怒鳴り声が玄関から飛び出して夜の空気を叩き割った。
「おんまえ、こいつ、また来たんか!! ええ加減にケリがついたと思ったら、あっちからもまだノコノコとウチへ来るか!! 死んだら許されると思うなよ、なんじゃおのれは!!」
しゃがれ、ひっくり返ったそれは、相当な怒りを含んだ声。
冥界にいてもなかなか聞く事の無いジャンルの怒鳴り声。
怒りの裏に、それと全く同じ質量の悲鳴・哀しみも含まれてるタイプのやつだ。浮気されて女がよく発する金切り声がそれだ。
聞きたくない声だけど、居たたまれなくなり、車の影からそっと覗いてみる。四角い顔の無精ひげの目立つ中年男性が、木肌を飲んだような顰め面を激しく上下に揺らして家の中から睨んでいた。
奴は怒鳴られ、何も答えず若干俯き加減のまま、ピクリとも動くことなくそこに佇んでいた。
「あなた、もういいでしょ、こんな時まで怒るのはやめて! この子がいつもどんな気持ちでここへ来ているのか、少しは考えてあげてもいいでしょ!」
主婦は小柄な体躯で男性の前に立ち塞がり、抗議の声を上げた。
「アホかおまえ、どっちの味方なんや! こいつの事なんぞ、来年の天気よりもどうでもええわ! おい糞餓鬼。こら。もう二度とここへ来るな! これを言うのも何度目か分からんな。もう次は無いぞ、出来損ないが、わかったか。このやろう」
奴は怒鳴られようが、唾を飛ばされようが、頭ごなしに罵られようが、何も言わず、構わず、ただただ頭を下げ続けた。
主婦が慌ててアイツを庇うようにした。
「ケンちゃん、ゴメンなさいね。主人の言う事は気にしなくていいから、ね」
「いいえ、僕は大丈夫です。……こういうの……慣れてますから」
「こら、こんな奴に謝らんでもええ! 塩持ってこい! 塩!」
中年男はさらに真っ赤になって喚き散らした。
――アタシが生きている時から結局、何も変わらないんだな、この男も。
主婦も男の喚きに根負けしたのか、それとも近所の目を憚ってか、しぶしぶ食塩の袋を持ってきた。
男はいきなりそれを奪い取って袋の中に手を突っ込み、大量の塩を鷲掴みにすると、まるで石でもぶつけるように思い切り、アイツの頭部に叩き付けた!
辺り一面にサーッという音を立てて散らばる白い粒粒。
男はサンダルをつっかけて歩み寄る。ただ項垂れる奴を恨めし気に見ながら、袋の中身を全て頭から浴びせ掛けた。ズザッと大量の塩が頭に積もる。
そして立てかけてあった赤色の傘を掴むと、それで徐にやつを叩いた。
そこまで思い切りではないように見えたが、痩せた体はその気迫に押され、乾燥した小枝のように玄関ポーチに倒れ込む。傘は、当たりどころが悪かったのか、少しぐにゃりと曲がってしまっていた。
「ちょっとあなた! 何をするのよ! もうやめて!」
主婦が奴と傘を交互に見ながら、悲鳴を上げる。
「……あのな、次ここに来たらどうなるか、覚えとけよ」
自身も少し動揺した様子の男は指を差しながら、息も荒く唸るようにそう言うと、軽いパニック状態の妻を家の中に押し込んで強引に玄関のドアを閉めてしまった。
十秒くらいして、またドアが開いた。
主婦だった。しんとした玄関に奴は意志の無い棒のように頭を下げた格好のまま、突っ立っている。音も無く、微動だにしない。
主婦は何かを言いたいが、喉まで出かかっているのにどうしても言えないようなもどかしさをその苦悶の表情に滲ませ、やがて無言のまま頭を下げ、ドアを閉めてしまった。
自分にはもうかけてやる言葉も無いと、その無念さに苛まれた表情が切に訴えていた。
奴はもはや何を考えているのかわからない、気でも触れたかのように全身塩まみれになってただただ頭を下げた姿勢のままだ。
やがて、のろのろと家を後にして、壊れたロボットのような足取りでどこかに向かい始めた。
アタシは家の者の気配がもう無い事を確認しながら軽トラの陰から飛び出し、一つ目の角を曲がったところで奴を捕らえた。
驚いて見開いた目がアタシを見るやいなや、その瞳は激しく左右に揺れて、すぐに目線を下にしてしまった。
こちらと視線を合わせる事を拒んでいる。やましい事がある証拠だ。
「あんた……何してんのよ! 自分が何をやったか、分かってる?」
駄目だ、こちらとしてもまともな言葉が何一つ出てこない。
奴は、ゆっくりと振り返り、尖ったまなざしで「……なんでつけて来たんだよ」と低く乾いた声で、言った。
塩が目に入ったらしく、真っ赤に充血して、街灯の明かりを反射したその双眸はアタシよりも遙かに死神っぽく、また遙かに深く暗い闇を宿しているように見えた。
こちらも答えに詰まり「なんでって……別に最初から狙ってつけてきた訳じゃない。本当に……ただの偶然というか、アタシも気付いたら繁華街に居て、訳が分からないまま彷徨ってたら偶然見つけたから、連れ戻すつもりでいた。いちおう立場上は上司だからさ、仕事として当然の事をしただけだ。私情は無い。それに、さっきも不良から助けてやったのに、一体どういうつもりでいるの、ねえ」問いに問いで返すかたちになる。
奴は路面を見詰めたまま、目を細めた。
「ねえ、何とか言ったら。こら、こっち向きな」
すると、アタシの手を振り払って徐に先立って歩き始めた。
「待ってよ、どこ行くの。上司の質問に答え……」
何を言ってもお構いなしだった。背中の少し上のほうに、靄のようにかかっている黒いオーラが、目には見えないけどそこにあるように感じるそのオーラが、全てを拒絶し、全てを嘲笑し、全てを絶望に飲み込まれる事をこれみよがしに大声で主張していた。
それは生きている者には決して見えない、そして見る事はないであろう、物理的な説明を超えた真の〝闇〟であり、地獄そのものだった。
どうしたらいいのか、とにかく野放しにできないので跡をつけるためそのまま歩き続け、何かいい案は無いかと必死に考える。
奴はマンションの谷間にある小さな公園にフラフラと幽霊のように入って行った。
「…………よりによって…………」
その真ん中あたりで背を向けたまま、立ち止まっている。
振り向かせるのは躊躇われた。逆の手を打とう。正面に回り込むんだ。
ここは相手のチャンネルにこちらが合わせて、こちらから闇に溶け込んで、そのうえで連れ出すんだ。
こういう事は生前、どちらかというと得意だったような気がするけど、もう生前の事もあまり思い出せなくなってきた。
終始掴み所のない微妙な空気が、焼けついた理性に揺さぶりをかけて自分を焦がす。
過去に縋り、絶望に甘え、諦めに酔う。思春期なんて所詮、それの繰り返しだから。
「なぁ、そろそろ話せってば。アタシはあんたが話すまで待つ。主神にもアタシが話を通す。あんたのやりたいようにやればいいし、言いたい事を言えばいい。アタシ、待つから。神に与えられた役目を蹴るなんて、地獄に落とされるレベルの行為だろうけど、いっそ、遠慮なんてせず吐き出してきてほしい。出来る限り、アタシ、受け止めるから」
目が合う。
「……見た通りだよ。説明なんて要らないだろ。説明しなきゃいけないのはお前の方だろ。ここで何をした。俺に何か言う事あるだろ。あれから何もお前から聞いてない。お前はここで、何をしたんだ、ほら、話してみろ」
ゴミを放り投げるような、乱暴で不躾な言い方。ささくれだった心がそのまま剥き出しで、混沌とした夜の空気を束ねて引き絞る。
「いや、答えになってない。質問に質問で返すな。こっちが聞きたいのは、あんたがどういう狙いがあってここへ来たか、その動機だよ動機。何が狙いだ、どうしたい」
「狙いって、それはどういう事が当て嵌まるのか俺は知らんけど、ただ自分の気持ちが収まらないからそうしているだけ、としか言えん。俺は何も、何一つも、一%も今、納得できないからその答えを探しているだけ。それ以上でも以下でもないんだけど」
「……答え?」
言葉の火種に火が点きそうで点かない、もどかしいこの気持ち。
一塊のまとまった風がボアッと吹き抜け、大木の葉をサラサラと歌わせる。
懐かしくも厭味ったらしい、自分の人生の終着点の匂いに腹の底から噎せっ返る。
「……そうやって自分が悪いって仮説を立てて、勝手に突っ走って、あの二人に謝る義務があると感じての行動なの? それが正解だと自分を納得させたくて、自分が信じたいだけの答えを、正解かどうか無理やり帳尻合わせを図って答え合わせをして、それがあんたの動機なの? そうなの?」
「違う、仮説とか義務とかじゃない……いや、本当のところは自分の中での独断的なものなのかもしれないけどさ、でも俺は自発的にやっているつもりだから。俺の勝手だから、どうだっていいだろ。善悪の問題じゃないんだよ、感情ってのは」
殆どうわ言みたいな感じで、どうしても、ついていけなかった。
わかる一歩手前で、わからない。
謝りたいの? それとも逆に、苦しいの?
「……今まで何度あそこに足を運んだわけ」
「まだ六回しか行ってない。だけど親父さん、見ての通りカンカンだったろ。俺の存在すら嫌悪しているみたいで、さすがに参った。これはもうほんと、お百度参りの言葉通り百回はいかないと許してもらえないかもしれない」
どうしようもなく居たたまれない。頭をガリガリ掻く。
「あ~もう! 違うのよなんか。あんたって男はさ、どうしてそう生前からアホなわけ? あーもう、なんだろ、とにかく馬鹿なのよ本当に! あんた、アタシと付き合う時も七回もコクってきたでしょ? 下手な鉄砲も数撃てば当たるとか言ってさ、なんか柔軟性が無さ過ぎてキモいし怖いんだって! 生きてる時にも言ったと思うけど、融通が利かなさ過ぎて突進タイプだから危なっかしくて見てらんないから付き合ったの! それにあの人が何を言おうと関係ない。アタシはあんたの気持ちが知りたいの。本心の方を、本当は何を考えてるのかってところを! 言ってる事わかる!?」
結構、思い切り本音を吐き出したせいで、痛覚なんて無いはずなのに、下腹がキーンと傷んだ。
痛みなんて、もう肉体を失った今、感じる必要性も感じるメカニズムも全て喪失したはずなのに、はっきりと感じた。
奴は相変わらず項垂れたまま、アタシの目をじとっと睨む。
「は? ごめん笑えた。それを知って何になる? もともとお前はこの光景を見る筈じゃなかったし、見ちゃいけなかったんだよ。本来見るべきじゃないものを見てしまったっていうだけでも罪が重いのに、それを更に探ったところでいったい何になる? それに勤務時間外に何をしようと俺の自由だろ?」
「探るとかそんなんじゃない! アタシはただ、あんたの本当の気持ちが知りたかっただけ……それだけで……」
おかしい。頬がくすぐったい。涙? そんなのも流れるはずないのに……
「それを広義で探るって言うんだろ! 遠回しの恫喝だぞ、男は力づくで自白を迫るけど、女は涙で相手の本意を洗い出そうとする。卑怯なんだよ、虫唾が走る! 美化しきれてねぇよ。本当の気持ちも何も、ただあの人達に謝りたいって思ったからそうしただけだ。世の中には探っちゃいけない〝本心〟ってのはたくさんあるんだよ、この世間知らずが。これが俺の全部だよ。まだ足りない?」
「はあ? 世間知らずはどっちよ! 人様の家にこそこそ通って自己満足に浸りやがって、おま、おま、おまえの方こそ常識なさすぎんのよ!」
次から次へと溢れてくるこれが涙でないとしたら、一体何なのかな。
ねえ、アタシは今、哀しいの?
それとも、苦しいの?
主神に聞いたら教えてくれるかな。いや、スケベな事言ってきそうだから、聞かないでおこうか。
「……自分の人生から逃げた奴には、言われたかねぇよ」
「アタシは……っく」
――しまった、また油断した……人間臭い。
「う、う、う……」嗚咽した。久しぶりに膝から崩れた。
ダメだ。どうして。そんなつもりないのに。
「聞いてるのか――おい、しっかりしろ」「触んっじゃねぇよ!!」
肩に置かれた手を振り払う。
直後にまた手が置かれる。
振り払っても、振り払っても。
「ふざっけんなどういうつもりだてめえ! 触んな!」
「落ち着けよ、生きてる人間が気付くだろ」
奴はふいに、顔を近づけた。
鼓動が勝手に高鳴る。
死神でも心臓はあった――動いていたなんて、今始めて気が付いた。
死んでいるのに、なんで心臓が動いているのかなんて、今はもうどうでもいい。ただ、この心の痛みの原因を誰か、説明して。
誰かこの渦を巻く罪悪感と嫌悪感と焦燥感の火を消してほしい、出来れば墓の中の骨壺の中のアタシの灰ごと全て無くなるまで焼き尽くして存在を消してほしい、とにかくそれだった。
「わかった。いいか、ちゃんと聞けよ――本心がどうとかっていう質問とは少し回答がズレるんだけど、俺がどうしてあの人達に何回も謝ってるのか、ちゃんと考えてみてくれたか?」
「はあ?」
肩を掴む手に力が込もった。
「あの人達以上に、お前に謝りたいからだよ」
「 」
今度は正面からアタシの目を見て、はっきりとそう言った。