増長天
【第7話】
翌朝、咲千の部屋はちょっとした騒ぎになっていた。
「こちらのお召し物はいかがかしら?」
「髪型はわたくしにお任せくださいませ」
「ぜひこの香油をお使いくださいな。とてもいい香りですのよ」
先輩天女たちに取り囲まれた咲千は、右から左から伸びてきた手によって着飾らせられた。
短衫という純白色で腰丈の長袖に、裙という卵色に金の縦ラインが入った巻スカートを履いて、手首には金や銀の鈴を飾り、髪は中華な二つのお団子に結い上げられて真珠の簪を挿し、おくれ毛をサイドに垂らしている。
肩や胸もと、手足など露出する肌には、薔薇とラベンダーを掛け合わせたような甘くて爽やかな香りのオイルを擦り込まれ、肌は生まれたばかりの赤ん坊のような透明感を放っている。
「咲千さまったら、完璧な装いでしてよ」
「お綺麗ですわ」
口々に褒められるのは、くすぐったいが、まんざらでもない。
(先輩方はえらい優しくて、親切で、世話焼き……)
ふと、花形にくりぬかれた南向きの窓へ視線を向ける。
そこには、どこまでも青く澄んだ美しい空が広がっていた。
朝だからか、鮮やかな七色の小鳥たちが賑やかに歌い、旋回している。
あちこちに咲き誇る花々も、四季の区別なく入り乱れ、踊るように花びらを揺らしている。
神や天女が暮らす天界は、人間界とはまるで異なる桃源郷だ。
山積みの仕事も、永遠に感じる上司の叱責も、不条理な八つ当たりも、面倒くさい人間関係も一切ない。
咲千はとびきり気分よく、伸びをした。
(今日も素敵な一日が始まる……!)
と、柚有が袖を摑んできた。
「咲千さま、早速ですが朝一番で増長天さまへご挨拶に参りましょう」
(えっ、いやだ)
とっさに頬を引きつらせるが、柚有はまなじりを下げて柔らかくほほえんでくる。
「大丈夫ですわ。わたくしも一緒ですから。それに昨日も申し上げましたが、増長天さまはお顔が厳めしくてもお心は怖い方ではないのです」
(厳めしい顔ねぇ……)
昨日花畑で会った人は、この世の美をすべて凝縮したような麗しい容貌だった。
『厳めしい』という表現とは少しずれているような。
(まあ、美醜の判断は人によりけりだしね)
無理やり納得させて、柚有の申し出を受ける。
道すがら、柚有にぽつぽつと疑問をぶつける。
「昨日の様子だと、増長天さまは太刀傷のような怪我を負っていたんですが、天界にも物騒な輩が住んでいたりするんですか?」
「太刀傷!?」
さりげなく訊いたつもりだったが、柚有はびっくりするほど青ざめてしまう。
咲千こそ驚いてしまって、慌てて両手をぶんぶんと振る。
「あっでも、もう治ったみたいなので命に別状があるとかではないと思うんですが」
それでも、柚有は薄桃色の唇を震わせている。
「わたくし、忉利天で悪しきものなど見たことがございませんの……」
「そうなんですか?」
「ええ。だって、忉利天はいつだって帝釈天さまによって守られております」
「帝釈天さま……って、四天王の一人でしたっけ?」
「いいえ。帝釈天さまは忉利天の主で、須弥山の善見城にお住まいです」
(つまり、上司の上司か……)
たとえ南天の上司・増上天が鬼畜だったとしても、中央の上司がまともであれば組織としては問題ない。
もしも困ったら、上に直訴する手もあるからだ。
少しだけ気が軽くなった。
続けて柚有は、帝釈天がどんなに素晴らしい神なのか語ってくれる。
そのうち、太刀傷についての話題はどこかへ消えて忘れてしまった。
やがて、目的地に到着する。
「増長天さま、柚有でございます。新入り天女の咲千がご挨拶に参りました」
物々しい鉄の扉の向こうへ呼びかけると、落ち着いた男性の声が返ってくる。
「入れ」
(ん? 昨日の声と違うような……)
扉が開かれる。
金属が擦れる音が立ち、部屋の中の人物が立ち上がった気配がした。
柚有に続いて入室すると、青い鎧をまとった立派な男神の姿がみとめられる。
凜々しく、やや彫りの深い顔立ちで、瞳は青みのかかった灰色、口もとはきつく結ばれている。
目つきも鼻筋も整っているが全体的に硬い印象が強い。
天女たちが言う『厳めしい』という形容詞にぴったりの容貌だ。
(やっぱり、違う人だ)
昨日出会った上司は、華やかな見目に、日輪のごとき輝く瞳をしていた。
「咲千さま、ご挨拶を」
「あっはい」
ぼうっとしていれば、柚有に促される。
焦って背筋をぴんと張った。
「初めまして、咲千と申します」
「うむ」
「よろしくお願いいたします」
「うむ」
昨日の男性とまるで違い、増長天は無口な神であるらしい。
(たしかに目つきは鋭いけど……そこまで怖そうな人じゃない)
ほっと胸を撫でおろすものの、新たな疑問が浮かぶ。
(じゃあ、昨日の人はいったい誰?)
天界に似つかわしくない太刀傷といい、やはり怪しい人物だったのではないか。
真の上司である増上天に報告しようかやめようか、どんなふうに切り出そうか頭の中でぐるぐると考えた。
そこへ、増長天のほうが先に口を開く。
「昨夜、主が戻られた。散華の支度をするように」
ぽかんとしていれば、すぐ横で柚有がかしこまる。
「承知いたしました。すぐに皆へ知らせます」
「うむ」
どうやら柚有へ仕事の伝達をしたらしかった。
「では、御前失礼いたします。咲千さま、参りましょう」
増長天の部屋を出、柚有に従い天女たちの宿舎へ戻る。
その足取りは来たときと変わらないゆったりさだ。
(『すぐに』って答えたのに、走らなくて大丈夫なのかな……)
電話はワンコール内で取る。
上司の命令は気をつけで即答。
そんな社畜魂が気を急かせる。
「これから散華というのをするんですか?」
柚有は足取りと同じく穏やかな口調で答えてくれる。
「そうですわ。わたくしたち天女の最も大きなお仕事でしてよ」
(巨大プロジェクト……!?)
まさか今日から連日連夜の徹夜生活が始まるのだろうか。
社畜の咲千は、想像するだけで武者震いが止まらなくなった。