甘露の雨
【第5話】
甘露の雨は男性の身体を包み、血を洗い流した。
見る間に腹の傷はふさがり、薄れていく。
無数の小さな傷跡も、大きな袈裟懸けの傷も、すべて消えて健康な皮膚に変わる。
それだけではない。
足もとでつぶれていた草花も金色の霧雨に潤されて、根元から針金でも差し込まれたようにぴんと身を起こした。
てっぺんには新しい蕾をつけ、むくむくと膨らみ、美しい花が咲きこぼれる。
(回復魔法なの……!?)
摩訶不思議な光景に、言葉も出ない。
「天界の雨は、すべてを再生させる恵みの雨だ」
「そんなの……」
信じられないが、これが天上世界なのだった。
雨はまもなくあがる。
あたりには静かで清浄な気が満ちていた。
(傷の手当てなんかいらなかったんだ)
花は一人で芽を出し、一人でに成長して花弁を開かせ、たとえ踏みつぶされても甘露の雨が降って簡単に再生する。
人の怪我も、あっという間に綺麗に治ってしまう。
咲千は彼の傷を押さえた羽衣を広げてみた。
血の痕はすっかり流され、新品のごとき輝きをまとっていた。
さらには、雨に濡れたはずなのに、髪も服もまったく濡れておらず、さらりと心地よい状態を保っているのだった。
「天女はなにもしなくていいって本当なんだ……」
ぽつりとつぶやく。
すると、男性が眉をひそめた。
「違うぞ。天女はなにもしなくていいわけではない。美しく優雅な姿で神々の世界を彩り、地上の人間どもに夢を見させる高貴な存在だ」
「……!」
はっとした。
そういう存在、咲千も知っている。
「わかりました。アイドル的な存在なんですね」
「なんだそれは。お前は本当に変なことばかり言うやつだな」
天界の住人はアイドルをご存じないらしい。
少しだけ人間だった時代が誇らしくなり、自慢めいて告げる。
「アイドルは舞台で歌ったり踊ったりして、みんなの憧れを一身に集める綺麗でかわいい存在ですよ」
「ふむ、納得した。シャチは社畜なアイドルだったのか」
「えっ、なんで」
(社畜なアイドルって! どんなパワーワードよ。やりがい搾取されてる絶対ヤバイ仕事じゃん……)
とんでもない誤解を笑い飛ばそうとするも、男性はまじまじと咲千を見つめてくる。
(……っ)
なぜか、背筋がぞくぞくとした。
肉食獣に狙いを定められた子ウサギのような心地がして、肩をすぼめる。
「なぜって、お前は美しくかわいい。さぞかし前世でもチヤホヤされたのだろう」
「はっ!?」
「おまけにどこか可笑しくて、興味が引かれる」
(待って、今褒められたの? けなされたの?)
わけがわからなくて目が回る。
だいいち、天利咲千は、平凡を絵に描いたような容貌の、なんのとりえもない凡庸な人物だった。
容姿を褒められたことなんてない。
前世でチヤホヤとか、ありえない。
だが、男性はふっと口もとに笑みを刷いた。
ただでさえ冴える美貌が、いっそう凄みを増す。
「シャチ、匂いを嗅がせろ」
「はあっ!?」
今度はなにを言い出すのか。
さっきこの人は咲千を『どこか可笑しい』いと表現したが、この人こそおかしい。
「俺は匂いを嗅げばだいだい相手の正体がわかる」
「意味がわかりませんっ」
「じっとしろ」
まったくもってこちらの意志などないように、大きな手が伸びてきた。
男性の武骨な手が肩にふれてくる。
「っ」
ざらっとした皮膚の感触は、女性のものとは違う。
なまあたたかなぬくもりに肌が粟立った。
完全に思考停止して身体も固まってしまう。
男性は遠慮なく美麗な顔を近づけ、咲千の肩先へうずめてきた。
むき出しの肩へ呼気が吹きつけられる。
「ぁ……」
背筋が甘く痺れた。
そんな自分の反応にも驚いて、頭が真っ白になってしまう。
男性は咲千の硬直にお構いなく、何度も鼻先を肩へくっつけ、呼吸を繰り返した。
「……匂わないな、なにも」
「っ!?」
冗談ではなく、本当に匂いを嗅がれていたと知って羞恥がつのる。
ようやく熱い呼気が離れていったが、今度はそのまま正面から至近距離で覗き込んできた。
「まっさらな無の匂い。だが、ひどく心惹かれる」
「ふぁっ」
さっきから変な反応しかできない咲千だが、男性はそんなの気にならないとばかり真摯なまなざしを向けてくる。
黒目の中に金環日食のごとき清浄なきらめきを宿す瞳で見つめられると、吸い込まれそうになった。
どんなに手を伸ばしても届かない夜空の星に心を奪われたような……不思議な感覚に支配される。
(この人はいったい……)
いきなり変なことを言って、匂いを嗅いできた。
まるで変態のごとき振る舞いだが、嫌悪感を抱くどころか、従わなくてはいけないような気分にさせられる。
(どうしてだろう)
もしや咲千が社畜だからだろうか。
上司の命令は絶対だという教えが染みついているせいで、この人から逃げ出そうとも、抵抗しようとも思えないのかもしれない。
(恐るべき社畜精神だわ……)
生まれ変わっても抜けないとは。