手負いの獣
【第4話】
羽衣を奪われた天女は、天へ帰れなくなる――、そんな伝説が頭によぎった。
(取られたら天女失格!)
とっさに咲千は思い切り引っ張り返す。
すると男性が、うっと息を詰めた。
「痛……」
見れば、彼は右のわき腹を押さえていた。
さわやかな浅葱色の薄衣の腹部が、黒味のかかった茶色に変色している。
「えっ」
透けるほど薄い絹を通して、男性のよく鍛え上げられた腹筋が見えた。
そして、左肩からわき腹に掛けて袈裟懸けの傷跡も。
「あなた、怪我を!」
咲千は文字通り跳びあがった。
出会い頭にすごんでくるようないけ好かない男性だが、負傷者だとすれば別だ。
花畑に寝ていた不審人物かと思ったが、怪我が痛くてしゃがんでいたのかもしれない。
不機嫌だった理由もそこにあった可能性も。
「動いて大丈夫なんですか? 人を呼んできましょうか」
「は? 人?」
(ああ、人じゃなくて天女? って、そんなの今はどうでもいいのに)
焦れた咲千は手を伸ばす。
怪我の具合を確かめようと思ったのだが……。
「なにをする」
平たい打擲音と共に、差し伸べた手は叩き落とされる。
せっかくの善意を。
さすがの咲千もかっとなる。
「手負いの獣ですか!? 大丈夫か心配しただけですよ。血がにじんでるんじゃないですか?」
こちらの剣幕に驚いたのか、男性は目を見開く。
その隙に、再び手を伸ばした。
「傷口に服がくっつくと、剥がすとき痛いと思いますよ。ちょっと見せてもらいますね」
問答無用で近づき、彼の上衣をめくり上げた。
浅黒い肌が現れ、高貴な香りがふわりと立ち昇る。
身体は服の上から察せられたとおり、よく鍛え上げられた武人のものだった。
肩からわき腹にかけての傷跡は、時代劇で見るような刀による袈裟懸けの傷跡に見える。
怪我をしたばかりというより、一度ふさがりかけた傷口が開いた雰囲気で、腹部から血がにじんでいた。
大きな傷以外にも、周囲の皮膚には無数の傷跡が残り、刺青の蛇のごとく肌上に浮かび上がっている。
あまりの惨状に衣を摑む手が震えた。
「なんてひどい怪我……。そうとう痛かったですね」
この人は花畑の管理長ではないのだろうか。
こんな怪我、普通ではない。
(応急処置ってどうすればいいんだっけ。まず止血?)
「ちょっと寝転んでください。上から圧迫して血を止めます」
背伸びして、頭一個分背の高い彼の肩を押す。
男性は唖然とした面持ちで、咲千の指示に従った。
花畑に寝そべらせてから、咲千は羽衣を外した。
表にも裏にも縫い目がない綺麗な絹だ。
緊急の手当てにはちょうどいい。
怪我人に不安を与えないよう、意識して口角を上げ、ほほえみを浮かべた。
「痛かったら左手を上げてください」
歯医者さんみたいな断りを入れてから、傷口を小さく畳んだ羽衣で押さえつける。
「おい」
すかさず咎める声が上がる。
「痛いですか?」
「いや。左手は上げていない」
変なところが真面目な返事だ。
ひどい怪我ながら冗談が言える余裕があるということだろう。
いい意味に受け取って、少しだけほっと息をつく。
「少し押さえれば止まると思うので、止血が済んだら誰かを呼んできますね」
「お前、こんなことをして問題ないのか?」
男性はおもむろに咲千の手首を摑んできた。
おまけに神妙な声で問いかけてくるから、驚いて傷を押さえる力が緩む。
(上司として、花の管理をちゃんとしろって言いたいのかしら?)
しかし先ほど柚有は、花は勝手に育つからなにもしなくていいと言っていたはずだ。
(あ、もしかして)
ふと目線を下へ落とす。
男性を寝そべらせた際、慌てていたから付近の花を踏みつけて倒してしまっていた。
しかも、その上に男性を寝かせている。
つまり、咲千は「花畑管理人のくせに花畑を荒らした」認定されたのかもしれない。
「すみません、お花のことは謝ります。あとで元通りにできるか頑張りますから、今は人命救助を最優先で」
「花? そんなのはどうでもいい」
「ええっ、管理長のくせにどうでもいいって……」
「誰が管理長だ」
「?」
会話が完全に嚙みあっていない。
混乱しながら手元に集中する。
びくびくと脈動する傷口から溢れる血で羽衣は半分くらい赤黒く染まっていたが、どうやら止まりかけてきたようだ。
「あと少しの辛抱ですから」
「お前、本当に天女か?」
「え? ええ、多分そうです……。ちょっと前まで人間でしたけど」
「ああ、なるほど。転生したばかりなのか。前世は医者か?」
「違います。ただの社畜です」
「社畜の……シャチ」
自分で言っておきながら、堪えきれないとばかり男性は噴き出す。
咲千も、くだらなすぎて乾いた笑いが漏れてしまった。
これだけ元気ならば、回復も早そうだ。
「はいはい。もうそれでいいです。っと、血が止まりましたね。離します」
ゆっくりと手を持ち上げる。傷口はまだ痛々しいが、流血していないだけましになった。
「立てますか? わたし、新入りなので詳しく知らないのですが、もし医務室とかあれば早めに行ってください」
「そんなものは必要ない。ほら」
男性は天を振り仰ぐ。すると、合図をしたように甘い香りが空から降ってきた。
黄金色をした霧雨だった。
真綿のごとく柔らかく静かに、ふんわりと細やかな雫が舞い降りてくる。
そして鼻腔を抜けるのは蜂蜜のごとく甘い香りだ。
「なに……これ」
「すべてを再生する甘露の雨だ」
いつの間にか立ち上がった男性が、両手を広げて目を閉ざす。
霧雨に打たれた皮膚は、うっすらと金色の光をまとっていた。
読んでくださってありがとうございました。
社畜の……シャチ。