魔の者
【第35話】
新米天女の咲千には、もともとたいした私物はなかった。
わずかな衣裳を紗に包み、須弥山を下りる。
以前に南天を目指したときはどちらへ行くのかわからず彷徨ってしまったが、物思いを抱えた今は、なにも考えずにふらふらと飛んでいた。
最初太陽は真正面に輝いていたが、だんだん視界の右側へ沈んでいく。
やがて、咲千の視界には、一面の花畑が飛び込んできた。
(あ、ここ……南天だ)
ふんわりと漂う芳香が咲千を迎えてくれる。
(前にここで、帝釈天さまに会った)
魔人障との戦いで傷ついた彼は、花畑に寝そべっていた。
甘露の雨を浴びて皮膚を黄金色に輝かせ、回復していく姿を目の当たりにした。
(なんだか、遠い昔みたいな気がする)
あのときはまだ彼が忉利天の主神だとは知らなかった。
(もし知っていたら、近づかなかったかもしれない)
だとしたら今頃、咲千の立場はずいぶん違っていたのではないか。
きっと南天に配属されたまま、日がな花を眺めて暮らしていたのだろう。
なんの憂いもなく、スローライフを満喫していたはずだ。
(最初はそういう第二の人生を望んだはずなのに……)
なぜだか今、避けるべき鬼畜上司の姿を、目が勝手に探してしまう。
(わたし、本当におかしい)
花畑に降り立ち、花をかき分け歩き出した。
視界の端になにか動くものを見つけて、びくっとそちらを振り返る。
(まさか)
いるはずのない神を期待して、胸が高鳴った。
だが、そこにいたのは、山吹色の衣裳をまとった先輩天女、柚有だった。
「咲千さまー」
小柄な彼女は、花に埋もれるようにして、一所懸命手を振っていた。
「柚有さま」
「お久しぶりですわね。また会えてとても嬉しいわ」
「……わたしもです!」
帝釈天ではなくてがっかりした、なんて絶対に認めたくなくて、咲千も声を上ずらせた。
柚有はゆったりと歩いてきて、咲千の両手をふんわりと握ってきた。
柔らかな白い手に包まれて、ささくれ立っていた心が丸くなっていく。
「聞きましたわ。今日からまたご一緒させてもらえるのですってね」
「もう連絡がいったんですか?」
LINEでも送ったのかと思ってしまう伝達速度だ。
伝書鳩とか飛ばしそうな雰囲気なのに。
とはいえ、咲千が考え事をしながらちんたら飛んできたせいで、ずいぶんと時間が経っていたのかもしれない。
「大変でしたのね。怖かったでしょう。でも、もう大丈夫ですわ」
きゅっと手を握って励まされる。
「大変って、なにをどこまで話を聞いているんですか?」
柚有は困ったように眉をひそめた。
「もう思い出すのはやめましょう? 増長天さまはわたくしたちを集めてご説明されたのですが、ことがことだけに話の途中で気分を悪くして倒れてしまう子がたくさんいましたの。わたくしも思い出すだけで胸が騒ぎますわ」
話しづらそうにされると、これ以上訊けない。
なんだか咲千が知らないこと以上に、彼女らは知らされているようだった。
「あら、あら……? あの方は、どなたさま?」
ふいに柚有が顔を上げ、首を傾げる。
つられて振り返れば、花畑の向こうから墨染の天女がこちらへ歩み寄ってきていた。
「毘毘さん……」
「まあ、お連れの方がいらしたのね。では、咲千さま、またあとでお会いしましょう。早めにお部屋へ戻ってくださいませね」
柚有は毘毘にぺこりとお辞儀をすると、咲千の手を放して去っていった。
入れ替わって毘毘が咲千の目前へやってくる。正面に立たれると、身長差で上から見下ろされる形になった。
整いすぎた美貌には一部の隙もなく、凝視されると緊張する。
「どうしたんですか、まだなにか?」
「いえ、本当は口止めされているのですが、やはりあなたには知らせたいと思い、わたしの一存で追ってきました」
(口止め? 誰に、なにを……?)
毘毘は瞳に深刻さを宿し、距離を詰めてくる。
蓮の花のような爽やかな香りがして、なんとなく帝釈天と似たものを思い出させた。
彼女は腰を屈め、咲千と視線を合わせてくる。
(近い)
どうも天界に住む人たちは、距離感が日本人のそれと違うようだ。
女性同士だからまだ毘毘とはいいが、帝釈天や持国天には気をつけてもらいたい。
「主はあなたに隠し通したかったようですが、ちゃんと知っておいたほうがいい。あなたは渦中の者ですから」
「渦中って……」
不穏な言葉に首をすくめる。
帝釈天が咲千に隠したいこととはなんだろうか。
(ペンダントをくれた理由もそこにあったりするの?)
どうしてかと何度尋ねても教えてくれなかった。
「先日善見城で、天女が数名故意に穢されて命を失いました。主の不在中です」
「っ!」
もしかして、同室の天女がいなくなった件は……。
怖ろしい考えに、背筋がぞわっと粟立つ。
「シャチさん、話を続けても平気ですか? もし気分が悪くなったらやめますから言ってください」
「大丈夫、です」
「あなたはなぜかこの手の穢れに少し強いようですね。先ほど部屋に充満した穢れにも、特に影響を受けなかった」
(あれは、『穢れ』ってやつだったの?)
部屋へ戻ってきた先輩天女たちが次々と倒れた様子を思い浮かべると、不安がつのった。
同室のみんなはとても穏やかで、争うことなんてまるで好まず、ひたすら優しくほほえんでくれた。そんな彼女らが、悪しきものに狙われるなんて怖ろしい。
その上、天界の、しかも中央の善見城内で事件は起こっているのだ。どちらも帝釈天の不在中を狙っての犯行らしいが、だとしてもとんでもないことだった。
「主はその件以来あなたを遠ざけるようになりました。そしてわたしに、あなたの身辺を影から守るようにと命じたのです。この意味がおわかりですか?」
「わ、わかりません……!」
「でははっきりと教えます。あなたは魔の者に目をつけられているのです」
思いがけない毘毘の指摘に、咲千はどう反応していいのかまったくわからなかった。




