シャチ
【第3話】
周囲は見渡すばかりの花畑だ。
人影はない。
(どこから声が……?)
腰を低くして怖々と周囲へ視線を巡らす。
すると、すぐ真横の草花が、バサッと音を立てて倒れた。
「きゃあ!」
思わず飛び上がってしまう。
そこには、眉間にしわを寄せた男性がいた。
座したままこちらをにらみつけている。
涼やかな切れ長のまなざしは不機嫌そうに歪められているが、びっくりするほど端整な顔立ちだった。
男性なのに妙な色気もある。
(なんて綺麗な……人?)
相手が人間かどうかはわからない。
咲千だって天女なのだ。
天人である可能性のほうが高いだろう。
(天人だとしたら、この美しさもうなずけるかも)
オーラ抜群の芸能人のような華がある。
中でも印象的なのは、彼の目だ。
黒檀のごとく艶やかな黒目の中で、日輪とよく似た金色の瞳が光っている。
(ものすごく神秘的で、ずっと見ていたい)
しかし、夢心地はすぐに破られる。
「俺は今すこぶる機嫌が悪い。即刻立ち去れ」
男性が、怒気をはらんだ低音ですごんできたのだった。
(なにこの人)
びっくりした。
この美しいばかりの天界で、こんなふうにむき出しの怒りをぶつけてくる相手と出会うとは。
前世の社畜時代は、仕事が溜まりまくってイライラした上司から八つ当たりされるのは日常茶飯事だったが、天界でまでされると萎える。
しかも、見た目が超絶イケメンだからこそ、性格が悪そうなところにがっかりした。
(どこにでも、嫌なやつっていうのはいるもんだよね)
あまり関わらないようにして、そそくさと逃げたほうがいい。
(本人も立ち去れって言ってたし)
納得して踵を返そうとしたところで、はたと思いとどまる。
(でも、この人誰なの? 放っておいていいの?)
天界に害をなす人だったりしないだろうか。
(いやいや、わたしの仕事は花畑の管理。もし怪しい人だったりしても、関係ないでしょ)
むざむざ面倒ごとに首を突っ込むなんてごめんだ。
とはいえ、この人を見逃したせいでなにか事件が起こって、せっかく手に入れたスローライフを失うようなことになれば、後悔してもしきれない。
ゆっくりと場を離れるふりをしつつ、横目で男性の姿を観察する。
着ているものは、浅葱色の薄物一枚だ。
浴衣のような雰囲気で、胸もとがしどけなく開き、燻した金属の首飾りが見える。
ほかに装飾品は着けていない。
咲千や柚有のような華美な格好ではなく、質素な装いだ。
(やっぱり、怪しい)
万が一に備えて十分距離を取ってから、おずおずと声をかけた。
「あの~、そちらでなにをされていたんですか?」
「ああ?」
再び男性の鋭い視線が突き刺さる。
金の瞳は獣のごとく輝き、刃を喉元へ突きつけられたような感覚に襲われた。
「立ち去れと言ったのが聞こえなかったのか?」
これはまずい。
即座に危機を察知した。
「聞こえましたっ。では、さようなら」
すぐさま館へ戻り、先輩天女の柚有に報告しよう。
そう思ったときだった。
ふいに手元が暗くなって――、身体が反転した。
「えっ」
仰向けに、花畑へ押し倒されたのだった。
頭上には美貌の男性がのしかかっており、こちらを見下ろしている。
さんさんと降り注いでいた日差しが遮られ、落とし穴に落とされたように大きな黒い影の中に囚われていた。
「お前、何者だ」
凄みのある声が降ってくる。
異様な迫力に圧されて、言葉が出てこない。
(なに……この状態?)
俗にいう『床ドン』とかいうやつだ。
しかし、背の下にあるのは床ではなく地面である。
(地面……土……汚れる……はっ!)
――『衣裳が垢でよごれる』
(さっそく天女失格じゃん!)
土と垢は違うが、その辺の細かいニュアンスで言い訳が通るのかわからない。
ともかく、転生一日目であっさりと憧れのスローライフを手放すわけにはいかなかった。
「どいてください!!」
知らない男性に押し倒されている恐怖を堪え、腹の底から声を絞り出す。
「なんだお前。主に逆らうのか?」
「主……?」
「そうだ。俺はここの主だ」
(リーダ的な? もしや花畑管理人のチーフ?)
ということは、新米天女咲千の直属の上司である。
(やばい!)
社畜魂が発動し、押し倒されているのに身体がぴきーんと気をつけの姿勢になった。
「初めましてっ、新人の咲千と申します!」
元気よく名乗ると、上司は右眉を上げる。
「鯱?」
(ぶ……っ)
どうやら緊張しすぎて嚙んだらしく、妙な名前で伝わってしまった。
訂正すべきか、そんなことすればますます上司の機嫌を損ねることになるからやめるべきか、瞬時にためらう。
その迷いが、上司の脳裏に『シャチ』で名前をインプットしてしまった。
「無礼だったり殊勝だったり、面白いやつだな、シャチ。気に入ったぞ」
地面に押しつけていた彼の手から力が抜ける。
表情からも剣呑さが消えた。
(気に入られた? なら、訂正しなくていいか)
変なあだ名の一つや二つ、社畜にとっては朝飯前である。
ともかく、機嫌が直ったのならこの機に乗じて退散したい。
そしてすぐさま乱れた服装を直して垢を落とさなければ。
尻でにじり下がり、上司の下から這い出て身を起こす。
「それでは、今日のところはこれで失礼します……」
「いや待て」
ところが。
去りかけたのに、肩に掛けた羽衣をぐいっと引っ張られてしまったのだった。