天女の規定
【第2話】
この世に生きる者は皆、死んだ後、生前の所行に見合った来世を約束されるという。
人間が人間に生まれ変わるとは限らない。
前世で悪事を働けば、虫や醜い化け物になってしまうこともあるし、その逆もしかりだ。
徳が高ければ高いほど、身分や財産が上の人間になれることはもちろん、それがさらに振り切れてしまえば天界にだって生を受けるらしい。
(社畜なわたしが、天女になれたなんて夢みたい)
咲千がした生前のいいことなんて、たかが知れている。
(赤い羽根募金で100円入れたとか?)
残念なほど小さなエピソードしか思い浮かばない。
(ううん、もう考えるのはやめようっと)
せっかく手に入れたスローライフを、簡単に手放したくはない。
今生はのんびりゆったり穏やかに、綺麗なものに囲まれた暮らしをするのだ。
(この服も……)
目線を落とせば、鮮やかすぎる紅色の衣装が揺れている。
服と言えば黒か茶しか身に着けたことのない地味な自分が、目の覚めるような原色を着ている上、デザインもすごい。
袖口が広くて長い薄地の上着(上襦というんだって)を着た上から、巻きスカート(裙というらしい)を胸もとまで引き上げて縛り、首筋と胸もとはまるっと露出している。その上に柔らかい羽衣をかけている。
緩やかな風が吹くたび、袖とスカートの裾がふんわりとなびいて空を彩り、装飾に縫いつけられた小さな鈴が涼しげに鳴る。
そして、袖やスカートの裾に隠れた手首、上腕や足首にもアクセサリーを着けていた。
花の種のごとく小さな金を連ねたアンクレットに、白銀の光沢が美しいブレスレット、折れそうなほど繊細な銀の飾り……、すべてが太陽に照らされて艶やかな光を発し、まるで着けている咲千の皮膚が内側から輝いているかの錯覚がする。
(髪型もすごい)
どれだけ長いのかわからない黒髪は、頭の頂点でまとめた後、複雑に編み込まれて二つの丸い山型に結い上げられている。
さらに小粒の真珠のピンが無数に差し込まれている。
普通に考えれば重いはずなのに、天女の特殊スキルなのかなんなのか、全然重さを感じないから不思議だ。
「さて、咲千さま。わたくし柚有より、一つだけお話がありますわ」
先輩天女は柚有と名乗り、どこからともなく巻物を取り出した。
五色の雲龍模様の金箔が押された見事な紙をくるくると開くと、お寺で嗅ぐようなお香のいい香りが立ち昇る。
「こちら、天女として気をつけていただきたいことをまとめた五か条です」
流麗な文字が気になって、横目で確認する。
そこに書かれていたのは――
☆気をつけましょう☆
一、衣裳が垢でよごれる
二、髪型がばっちり決まらない
三、なんか臭う
四、腋から汗がにじむ
五、待遇に不満を持つ
「え? なんですかこれ」
「これらの症状が出た場合は、残念ながら天女ではいられなくなりますの」
「ちょっとなに言ってるのかよくわかりません……」
「大丈夫ですわ。普通にしていれば、ぜんぜん難しいことはございません」
服装の乱れを戒められるのはわかる。
まあ、髪型もいいだろう。見た目の清潔さは大事だ。
だが、汗をかいてはいけないとはどういうことだ。
(女優なの!? ねえ?)
激しく突っ込みたい。
しかし、ぐっとこらえる。
(待遇に不満を持ってもだめって書いてある。つまり、文句なんて言えば一発退場の可能性も?)
せっかく手に入れたスローライフを、むざむざ手放すわけにはいかないのだ。
汗くらい……なんとかしてみせようホトトギス!
目の前で邪気なくほほえむ柚有を見習って、咲千も頬に笑みを貼りつけた。
「かしこまりました。気をつけます」
「はい。それでは、日が暮れるまでにお部屋へお戻りくださいね。丘を登った先の館でお待ちしています」
柚有は肩に掛けた羽衣をひるがえし、背を向けた。
ふわふわした足取りで丘の上へ姿を消す。
残された咲千はしばらくぽかんとして立ち尽くした。
風に吹かれた花びらが、そよそよと頬を撫でてはまた飛んでいく。
視界の先には、雲一つない青空。
暑くもなく、寒くもない。
「ものすごく平和だ……」
大きく息を吸い込んだら、甘い花の香りがほんのりと鼻腔を抜けた。
心が浄化される。
(仕事は花を見ているだけ。なんて……素晴らしい!)
じわじわと喜びが胸にせりあがってくる。
せっかくの穏やかな時間だというのに、走り出したい衝撃に見舞われた。
夢みたいに綺麗な一面の花の中を、転げまわりたい。
足の裏がうずうずしてたまらなくなった。
はあっと息をつき、大きく踏み出す。
「はわわわわわ~」
意味不明の叫びを上げながら、緩やかな斜面を下っていった。
丘陵を下るにつれ、花の色合いはだんだん淡くなっていくようだった。
大きさも少しずつ小さくて丸みを帯びたものが増えてくる。
代わりに、茎や葉の背丈がひょろ長くなってきて、いつの間にか咲千の腰の辺りまで届くようになった。
咲千はようやく足を止める。
あれだけ走ったのに、息はちっとも上がっていなかった。
もちろん汗は一滴もかいていない。
(天女って、すごい)
さすが極楽浄土の存在だ。
汚れも疲れも、まったく無縁なのだ。
(幸せだなあ……)
花と顔との距離が近いため、花のお風呂に浸かっているようだった。
芳香は花弁の色合いに比例して薄くなるものらしく、そこはかとなく漂うだけで、心地いい。
淡い色合いの花弁も目にしっくり馴染む。
露出する肌にふれる柔らかな葉の感触も、涼やかで癒される。
五感全てで天上世界の素晴らしさを満喫した。
(このままここで眠っちゃってもいいかも)
夢見心地でまぶたを閉じかけた、そのときだった。
「誰だ?」
突如、低い声が地を這って聞こえてくる。
咲千は肩をびくりと震わせて振り返った。