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夕陽ヶ丘西霊園

「久之木家の……」


 芙月が零した一言が、吹き過ぎた一陣の風音にかき消された。


「その子は、きみの友だちかい?」


 稲達の発した疑問に、ただ一動作、玲那が首肯する。


「所長……」


 芙月が、心配そうな瞳で稲達を見上げる。そこに込められた意図を稲達は正確に理解し、その上で、なにも言わなくていいとばかりに静かに首を真横に振った。その一連のやりとりを、玲那は墓石を見つめていた為に見ていない。


「……仲が、良かったみたいだね」

「はい……きっと、とても良かったんです。私たちはきっと、とっても仲が良かったんです……」


 二度、玲那は繰り返し強調する。

 びゅう、と風が吹き荒び、彼女の金の髪を吹き散らした。

 稲達は何も言わず、芙月も何も言わない。玲那は無言で、墓を見つめている。とても仲の良かったという友達の墓を、凝視している。そこになにか、彼女にとって大切で重要な事柄が隠れているとでもいうかのように、見ている。


「少し、寒くなってきたな。直に夜も満ちる」


 ぽつ、と稲達が言う。次いで、


「諏訪さんと言ったね……きみは歩きでここまで?」

「いえ、バスです」

「姪の芙月と共に、良ければ帰りは乗せていくが、どうだろう? こんな夜中に一人は危険だよ」


 稲達の申し出に、玲那はにぃと笑みを浮かべた。いつものからっとした笑みではない、どこか湿った、まとわりついてくるような笑みで、


「それなら──探偵さんが危険ではない証拠はあるんですか?」


 危険であることを危惧して送ろうとしてくれるあなた自身が危険ではないと証明できるか。

 そんな質問に、稲達は「確かになぁ」と笑った。危機意識の高いことは良いことだ、とそんなことまで思った。


「しょ、所長はまともなヒゲっ……じゃなかった、まともな人だよっ。危険とかじゃない」

 

 稲達が何かを言う前に、芙月がそうフォローする。そんな姪の様子に、稲達は苦笑した。この子は本当に良い子に育ってくれた。

 芙月の言葉を継ぎ、稲達は自身の潔白を述べる。


「少なからず、私は私自身がまともであると信じている。そんな私でよろしければ、きみを送らせてもらおう」

「大丈夫だよ、諏訪さん。もし伯父さんがなにか悪いことをしようとしたら、私が止めを刺しますっ」


 二人のやり取り、言葉を聞いて、玲那はくすりと笑った。その笑みはもう、乾いていた。


「意地の悪い冗談でごめんなさい。最初から疑ってなんていませんよ。最近、色々と物騒ですし……さっきも私、八百屋のおじさんに早く帰れよー、って言われたばかりですもん」

「……ねえ、諏訪さん。そのときって、あなたは一人だったの?」

「え、うん。一人だよ。さっきも言ったけど、私今日は一人でここに来たし」

「私たちも八百屋のおじさんに会ったんだけどね、そのときおじさん、残ってる女の子が二人いるって言ってたの」

「えぇっ!?」


 玲那は驚きの表情を浮かべる。


「茶髪の子が、諏訪さんと話してたんだって」

「茶髪の……ううん。そんなことはなかった。私、ずっと一人であそこにいたし……人間は私一人しかいなかったって、断言できるよ」

「なら、八百屋さんの見間違えかな」

「たぶんそうだろーねー。もし誰かいたら怖すぎでしょ」

「うん、怖すぎ。だからいないほうがいい」

「だよねー」


 そして玲那は、黙って二人の会話を聞いていた稲達のすぐ傍らまで楚々と近寄り、「それじゃあお願いします」とひとこと。浮かべた笑顔は年頃に可愛らしく、芙月はよく分からない危機感を抱いた。


「す、諏訪さん、それはちょっと近すぎないかな?」

「そーお?」


 聞くものの、玲那は離れようとしなかった。なぜだか楽しそうに、なぜだか嬉しそうに、彼女は稲達の隣でにこやかである。


「探偵さんがもっと若かったらなー」


 そんなことまで口にする。

 芙月は一層の危機感を抱いた。理由は分からないが、この転入生兼クラスメイトは危険な香りがすると判断した。詳しく言えば、なにかライバルになりそうなそんな予感がした。

 当の稲達は苦笑し、動じた様子はない。

 それはそうか、と芙月は安心する。彼は妻帯者だ。なにか不貞をしそうなものなら、芙月は即座に夕陽おばさんとついでに母親──稲達の妹──に言いつける心づもりである。それで怒ってもらう。まあ、稲達に限って不貞などあり得ないとも思っている。稲達という人間は、芙月から見る限りではとても誠実で真面目なヒゲだった。そしてそれは間違っていない評価だと、芙月は確信している。

 三人はそのまま踵を返し、入り口の駐車場へと歩き始める。

 暗闇の向こうから風が吹いてくる。頬を撫でつける、冷たい冷たい、夜の風。 

 やがて、駐車場が見えてきた。小さな管理棟の傍の、大きな駐車場だ。そこにあるのは心細い電灯に照らされている一台の、赤い車。年季の入って死にかけの、稲達の車だった。


「わー、かわいらしー車ですね」

 

 玲那の感想に、稲達は「そうだろう」と賛同した。


「帰る前に、なにか飲みたいものはあるかな」


 そう言うと、稲達は管理棟の入り口にある自動販売機へ手をやった。


「好きなものを言うと良い」

「そ、そんな……収入の心もとない所長にたかるなんてそんな真似……」


 芙月が毒を吐きつつも遠慮する。少なくとも気を遣ってくれているのは確かだ。


「なに、気にすることはない。私自身がふと飲みたいものがあってね、それで君たちの喉がもし乾いていたらいっしょに潤ってもらおうと、それだけのことだよ」

「わー、ありがとうございまーすっ。それじゃいただきますー。ほら、芙月ちゃんもっ」


 明るい笑顔の玲那に促され、「わ、分かったよ」と芙月は引っ張られていく。

 そうして稲達はカフェオレを、芙月と玲那はそれぞれお茶とコーラを買った。


「所長、カフェオレなんて飲むんですか?」

「意外か?」

「いつもコーヒーばかり飲んでいるので、てっきりカフェイン中毒なのかなと思ってました」

「私とて、たまには甘いものを飲みたくなる時があるのさ」


 笑う稲達に、「お菓子とか、食べるんですか?」と玲那が聞く。


「たまにね。そんなにしょっちゅうではないが」

「甘いのですか? 塩っぽいのですか?」

「甘い方だな」

「それならそれなら、今度作って持って行ってもいいですか?」


 握りこぶしの両手を前に、気合を入れた風に玲那が訊ねる。


「差し入れか。それはありがたい」


 稲達はそう、笑う。それは子供から向けられた善意への、大人としての対処の笑みだった。


「なら持って行っちゃおーっと。楽しみにしててくださいねっ☆」


 嬉しそうに笑う玲那に、「そ、そんな」と芙月はショックを受けた風。芙月のよく分からない危機感がプラスされた。


「それじゃあ、行こう。道を教えてくれればそこまで送る」


 全員乗り込み、イグニッションキーを回し、エンジンがかかる。後部座席に芙月が座り、助手席には玲那が座った。


「えっとですね、街中の、『メゾン夕陽ヶ丘』ってところなんです」

「諏訪さんって一人暮らしなの?」

「うん。そだよ」

「はははっ、それは、立派だね」

「そんなことありませんよー」


 稲達の言葉に、えへへと玲那が嬉しそうに笑う。乙女の笑顔だった。芙月の危機感が更に増した。

 乙女の笑顔のまま、冗談めかし、あくまで冗談めかして、玲那は言った。


「さっき言ってた茶髪の子、ついてこないといいですね」


 そして、三人を乗せた車は動き出した。

 芙月は、運転席の稲達の後ろ、右側に寄って座っている。だから彼女の左側、助手席の玲那の後ろ側は空席である。

 空席とはすなわち、誰も座っていないということだ。

 前の方、稲達と玲那の会話を、芙月は黙って聞いていた。

 今、車内にいるのは三人。


「本って読みます? もしくは読む予定とかあります?」

「当分の間、ないな。きみは?」

「にーさーつー……ぐらい、でしょうか。一週間で。最高に暇な日とかは、一日三冊読んだり」

「三冊か……ずいぶん読むのだね」

「人気のある本ばっかりなんですけどねー……あっ」

「? どうしたんだね?」


 稲達の問いに、玲那は「いえ、そういえば家の鍵閉めてたっけなって、今、とーとつに思っちゃって」と笑い、「でももうすぐ帰りますし、悩むことでもありませんっ」と更に笑った。稲達もまた、玲那の笑みにつられるように笑う。


「……」


 芙月は窓を下げ、吹き込んでくる冷たい風を受けつつ一心不乱にずっと右側の景色を見ていた。


 ──もし、左の席を見て茶髪の少女が座っていたら。


 そんな理由で、である。

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