夕陽ヶ丘西霊園
いつ来たところで、この霊園内に誰かがいたことはなかった。
ガランとしている霊園内を見回しながら稲達はそのような考えを持った。そんなことを考えはするが、実際はそうでないのだろう、とすぐに思い直す。タイミングと、印象の問題だ。
「あれ、孤道さんじゃないかい。それに芙月ちゃんも」
現に、こうやって見知った顔とばったり出くわす。誰かいないと思っていても、案外、そこには誰かがいるのかもしれない。稲達はそんな考えを抱く。
「どうも、こんばんは」
稲達は軽めに会釈する。「こんばんはー」とすぐ隣の芙月がにこやかにご挨拶。「おう、こんばんは」と片手を挙げ、稲達の知人であるその男は、クシャリと皺だらけの顔で笑った。
「孤道さん達も、誰かの墓参りか?」
「ええ、まあ」
稲達はそう言葉を濁し、「あなたもですか?」とは続けなかった。とうに知っているからである。目の前の男が誰の墓参りの為にここへ来て、その誰かがどのような最期となったのかを。
「美月さんも、どなたかのお墓参りで来たんですか?」
だが芙月が聞いてしまった。事情を知らない、部外者たる彼女に罪はない。
「あー……アハハ、まあ、な。娘の命日が近いんでさ、こうやって来たんだ」
気まずそうに、美月さんと呼ばれたその男は頭を掻いた。芙月が「あ……」という表情を浮かべ、場が暗い雰囲気に包まれようとしたところを、稲達が「そういえば、先日はありがとうございました」と話題を変える。
「先日……ああ! あれね、良いってもんよ、ちょっとしくじって大量に仕入れちまって困ってたんだ。椎茸ばっかり大量にあってもなぁ、と思ってたところにちょうど孤道さんが買い物に来たもんだし、日ごろご贔屓してもらってる礼として渡しちまえと思ってな」
「妻も喜んでいました」
「おお、そりゃあ嬉しいねえ。孤道さんのあの美人奥さんに喜ばれるたぁ、こっちも渡した甲斐があったってもんよ。ハハハッ、あんまし言うと家内に叱られちまうから、まあこれぐらいにしときますがよ。まあまあ、これからもどうぞご愛顧くださいな」
「もちろんです」
稲達が笑い、「さて、あんまり暗くならないうちに帰んねえとな。バスの時間も近いし」と男が言う。そして去り際、男は「ああそういや」と稲達たちに向かい、言った。
「女の子が二人、誰かの墓の前で話し込んでたぜ。『暗くなる前に帰りな』って言ったんだけどよ、『分かりましたー』ってだけで、また話し始めちまった。最近、色々と物騒だし、もし孤道さんがそん子たちを見かけて、まだ帰りそうな様子じゃなかったらよ、孤道さんからも言っといてくれねえか。金髪の女の子と、茶色っぽい髪の女の子の二人組なんだけども。あーでも、金髪の子の方はけっこう店に来るし、目立つから顔は知ってんだよなぁ、名前は分からんけどさ」
「ええ、分かりました」
「そんじゃあ、よろしくな」
そして、男は霊園の出入り口の方へと去って行った。
「……すみません。不必要なことを聞いてしまいました」
芙月が、しょんぼりと謝る。
「気にすることはない。理くんは何も知らなかったし、私も何も教えていなかったんだ」
稲達は言い、「行こうか」と歩き出した。
とっぷりと夕闇に呑まれようとしている、ガランとした霊園。人工的に整列する墓石の間、石畳の道を、そうして二人は歩きゆく。
◇
「だーれもいないのにただお墓が並んでるのって、なんだか神秘的で……不気味ですね、ふとした拍子に幽霊が立ってそうで……うう、考えて自分で怖くなってきましたぁ……。この前も事務所で心霊体験してしまいましたしぃ……」
暮れ落ちる陽ざしを受け、傍らの芙月がぶるりと震えた。「幽霊ねえ……」その後に何も言葉を続けず、稲達はゆっくりと石畳の道を歩む。ざり、ざり、という足音が、いやに耳に響く。視界の奥、薄く見える山々の稜線が、夕闇に溶かされていくのが見える。
「駐車場、私たちが乗ってきたもの以外に一台も車が停まってませんでしたし……今この瞬間、夕陽ヶ丘西霊園の敷地内には私と所長と……さっきの美月さんが言ってた二人の女の子以外には誰もいないということなんですよね……いたらどうしよう。そのとき私は気を失いますので、所長、後はよろしくお願いします。くれぐれも置いてかないでくださいね。置いて行ったら所長のヒゲを全剃りしますからね」
「無用な心配だな。きみを置いて行ったりはしない。理くん一人ぐらいならば担ぐに易い」
「……!」
「どうした?」
「い、いえ、なにか、殺し文句を喰らったような気がしたので……ま、まあいいんです。こほんこほんっ。しょ、しょっちょさん、これはアドバイスなのですが……中年男性が気を失っている女子高生を担いで歩いて車に乗せたり車から下ろそうとしたりする姿は傍から見て相当ヤバいと思いますので、その辺りは細心の注意を払ってください」
「心得た。きみのお母さんのところへ、しっかりと送り届けよう」
「頼みます。幽霊を見たら私は確実に気を失うでしょうから、そのとき頼れるのは所長だけなんです。私はまだ、幽霊の仲間入りをしたくありません……」
そう言うと、芙月はまたもやぶるりと震えた。
冗談か、本気か。おそらく後者だろう。稲達は考える。姪は心から幽霊を信じている。非実在的で非現実的な幽霊を、だ。稲達はそんな姪の気持ちを一笑に付す気にはとてもならなかった。稲達は、その目で見たものは如何におかしく奇妙であろうと、信じる人間だった。言い方を換えれば、稲達は自身の認識した現実を信じる人間だった。どんなにおかしく、不条理だろうと、認識したならばそれが現実なのだろうな、とそう捉えていた。……それはもはや、ある種の諦観に近い。
稲達が一歩先んじ、その後に芙月が続く。
芙月は、稲達の目的を知らない。ただ、「夕陽ヶ丘の西霊園の方に用がある」と言っていた稲達に無理やりついてきただけだ。稲達は気が乗らなそうだったが、芙月は強行した。所長の往く先について行ってその助けとなるのが助手としての役目だと、芙月は思っているのである。だからついて行く。無理を言ってついて行く。本当に稲達が嫌そうな表情を浮かべたらついてはいかないが、それ以外のすべてのケースで一緒についていく心づもりなのだった。
「……ふむ」
「むぎゅ」
十字になっている石畳の道を右に曲がり、その後で急に立ち止まった稲達の背中に、芙月は顔から突っ込んだ。「おっと、すまないね」と稲達が言うと、「私の前方不注意です」と芙月は殊勝に自らの否を認め、鼻を押さえつつ前方を見、「あ」絶句した。
稲達と芙月の前、誰かのお墓の前──人がいた。人が、一人。
「……っぶな、っふ」
妙な声を上げ、芙月は気絶しかける自身をどうにか踏み留めた。死ぬほど吃驚しはしたが、先ほどの美月青果店の主人の言葉に加え、目の前にいる人が、すぐに誰か分かったためになんとか気を保てた。もちろん目の前にいるのは幽霊ではない。同級生だ。夕闇、黄昏、誰そ彼。かろうじて誰か分かれたのは、彼女の持つ、印象的な金色の髪のおかげだろう。
「諏訪さん……?」
それは、諏訪玲那だった。
顔には陰が落ちていて、どんな表情を浮かべているのかが、芙月にはよく分からなかった。
「え……あぁ、芙月ちゃんに、探偵さん。こんにち……もう、こんばんは、なのかな」
小さな声。いつも学校で見る活発な彼女の印象と程遠いその声色に、芙月は困惑した。しつつも、「こんばんは」と返した。
「こんばんは。きみは……一人で、ここへ?」
稲達も同様に挨拶し、問う。その質問の意味を芙月はしっかりと理解していた。ひとつの疑問が、稲達と芙月の頭に浮かんだのである。先ほどの美月の言葉を受けた二人の疑問。それは──なぜ、一人しかいないのか。
「え……? は、はい。私、一人でここに来ました」
そう、玲那は答える。最初から一人だった、と彼女は言う。金色の髪を持つ、彼女が。
「しょ、しょちょー」
芙月が不安げな表情で稲達を見上げ、か細く言う。「私、倒れていいですか」
稲達はす、と芙月の頭にポンと手を乗せ、すぐに離した。我慢したまえ、という意だった。「うぅ……」仕方なしに、芙月は我慢することにした。
「きみも、誰かの墓参りかな」
「あはは……」
稲達の言葉に、玲那は困ったような笑い声。芙月からでは、夕闇に呑まれていて表情がよく分からなかった。稲達に関しても、同様、だろう。
佇む玲那へ、稲達が先に、次いで芙月が歩み寄る。陰る玲那の表情がようやくはっきりと分かった。チカチカと、霊園内の電灯が点き始めた。
「友達のお墓なんです」
そう言う玲那の視線の先を、芙月も同じく見つめた。
誰かのお墓──そこには、久之木家の墓、と刻まれていた。




