家へと戻った
「あ……。雨、止んでるみたい」
104号室を出てすぐだった。
手のひらを天に向け、次いで鬱々とした灰色の空を見上げ、夕陽がぽつりとそう呟いた。
「運が良い……でもまだ降ってきそうだ」
「ね。少し、急ぐ?」
「そうだな、急ごうか」
そしてまた、俺たちは歩き出す。来た道を逆へ、わが家へと。
まだお昼を少し過ぎたぐらいだと思うが、空の灰色さと街並みの静けさも相まって、俺の視界に映る世界は色あせていた。白でもなく、黒でもない。生きてもおらず死んでもいない、半端な生死を湛えた灰色の街。歩く姿はふたつだけ。今は二人。……あの忠告。二人だったら……なんだったっけ。
「お昼ご飯、どうしましょうか。桜利くんお腹すいてる?」
「そんなに空いてないな。夕陽は?」
「私も、そんなに」
「家に帰って、それでお腹空いてたらで考えよう。ひょっとすると買い物に行く必要だってあるかもしれないし」
「そうね」と夕陽。そしてしばらく、俺たちは無言で歩く。乾ききれていない服が若干冷たい。
「ね、桜利くん。ふと思ったのだけど」
「うん?」
「ご飯って、桜利くんが作ってるの? それとも舞ちゃん?」
「舞だよ。俺が手伝うことと言ったら、食材の買い出しの荷物持ちぐらいだな」
俺が舞の買い物を手伝うときはだいたい荷物持ち。そうだったらしいと、陽香に聞いた。実際休日に買い物に行ったときはそのような役割となったため、事実としてはそのようになっていたのだろう。
「手伝おうにもキッチンから追い出される。男子は厨房に入んないで、だとさ。我が妹ながら古風な考えをしている」
「ふふ、可愛らしいわ。きっと手作りを食べてほしいんだ」
「そうなのか。いや、作ってもらってとても助かってる立場なんだけどさ」
「きちんと感謝しなきゃ。まさか桜利くん、作ってもらっておいて好き嫌いなんてしてないでしょうね?」
からかう声調の言葉。彼女の顔には笑みが湛えられている。にい、と口端をあげ、白く綺麗な歯を見せている。無邪気な笑顔とは、今の彼女が浮かべるソレを言うのだろうな、とそんなことを思った。できる限り、この子には笑っていてほしい。そんな感傷めいた望みすら浮かんでくる。
「ははっ、してないよ。俺に嫌いな食べ物はない。食えるものは全て食える」
「そう。嫌いなものがないのね。じゃあ、好きな食べ物はある?」
「好きな……どうだろう。あるにはあるんだろうけど……ぱっと思い浮かばない」
「そこをどうにか、思い浮かべて」
俺が言い終わらないうちに、夕陽が一歩こちらに詰め寄りそう言った。
「なんでそんな食い気味に」
「言っておいて損はないわ。知っておいて損でもないし。お互いに利益はなくとも、決して損にはならないの。だからほら、言ってみて」
「好きなの……オムレツ、かな。ぱっと思い浮かんだヤツで悪いけど」
「オムレツ……」
「い、いやさ、舞が朝に作ってたのが、うま……ってなっただけの理由だよ」
「ううん。それだって十分な理由よ。美味しかったって記憶は大切。好きな食べ物に大仰な理由なんて必ず要るものでもない。桜利くんが食べて美味しかったから好き、シンプルで分かりやすくて私は好き……ああっ、今の『好き』はね、好ましく思いますみたいな意味だから。そういう意味だからっ」
ぐいぐいと、夕陽は訴えかけるように云ってきた。
「しょ、承知しました」
「はあ……ま、まあ桜利くんはオムレツが好きなのね。分かったわ」
少しく微笑を浮かべると、夕陽は再び歩き出した。
もうだいぶ、俺たちは歩いている。向こうの十字路を直進してしばらく歩けば、我が家は間もなく見えてくる。
「あ……」
道の向こうに、人の姿を見た。
十字路の向こうからやって来るのは、スーツ姿の偉丈夫。稲達さんだ。おそらくは探偵であろう男性。まだ確定はしていないのではあるが。
のそのそ、と緩やかな足取りでこちらへと向かってくる。視線は地面に向いていて、俺たちにはまだ気づいていない。どうやら考え事をしているようである。
すると。
「待って」
十字路にさしかかる直前、夕陽が俺の腕を引っ張った。
「こっちの角を右に曲がった方が近道になるわ」
「お、おい……」
そう言うと、俺の返事を聞く前に半ば無理やりに腕を引っ張りながら、角を曲がり、そのままずんずんと進んで行った。曲がる直前にちらと見てみたが、稲達さんはやはり俺たちに気付く様子はなかった。よほど深く考え事をしているらしい。依頼についてとか、だろうか。
「夕陽、気付いてたか?」
「なにが?」
「道の向こうから知り合いの人がやって来てた。ほら、稲達さん。探偵の人。ヒゲ」
「ああ、そうなの。気付かなかった」
と、彼女は無関心にそう答えただけだ。
「稲達さんとなにか話しておきたいこととか、あった?」
「……特にはないな」
「それなら行きましょう。稲達さんには悪いけれど、今は早めに帰宅するべきよ。桜利くんも寒いでしょ」
俺の手を握り、さっさと夕陽は歩き出す。
そうして間もなく、俺たちは我が家に帰宅した。




