黒髪の幽霊
電灯がつけられた室内で、俺はピンク色の絨毯の上に座っていた。
窓の外には血闇色とでも言うのか、そんな風な色合いの空が広がっていたが、諏訪さんが「気味が悪いわ」と早々にカーテンを閉め切ってしまった。確かに気味が悪い空の色だった。誰かの恨みが充満しているかのような、そんな空色だった。
「お茶とコーヒーと紅茶、どれがいい?」
「なら、お茶で」
「分かった。はい」
とん、と間髪入れずに俺の目の前にあるテーブルの上にグラスが置かれる。その液体はお茶というにはあまりに黒く、しゅううと音を立て、気泡が弾けていた。「ありがとう」礼を言い、口に含む。爽やかな甘みが口の中にしゅわっと広がる。コーラだこれ。入れたてのコーラ。果たして今の問答に意味はあったんだろうか。
「だってもう注いでたんだもの。アンタってコーラ嫌いなの?」
「いや、そんなことはないけど」
「じゃあいいじゃん。コーラおいしいし」
「まあ、だね。コーラ美味しいから」
コーラは美味しい。それが結論である。
「それで」と諏訪さんは自分の分のコーラを口に含み、改まって神妙な顔つきとなり、切り出した。
「私が学校とか遊びとかから帰宅すると、ときどき、この部屋の真ん中で仰向けで、目から涙を流して、黒髪の女の子が倒れてるの」
軽い調子の言葉に反し、内容はおどろおどろしい。
冗談を言うような口調で、言っている諏訪さん本人にも深刻さがない。
「そ、それって……冗談?」
「えー? ジョーダンに聞こえるー? マジもんの話なんだけどねぇ」
「いやさ、言い方に深刻さがないから……」
「そっかな。ならもう少し、真剣な顔を頑張ってみますかな」
言うや否や、諏訪さんは改まったように真剣な面差しとなった。
「……最初はね、怖くってすぐに目を逸らしてたの。初めて見たときは家の外に飛び出して、しばらくコンビニで時間を潰したわ。そのときはまだ、私も越してきたばかりで泊めてもらうほどに仲良しな子なんていなかったし……一、二時間ぐらいかな、そのぐらい経ってから恐る恐る、家に帰ったの。そしたらその女の子は消えていた。ホッとして、その日はそのまま眠ったわ。意外と眠れたのが、我ながらびっくり。私ってけっこう図太い神経してるみたい」
「それで」と諏訪さんは言葉を続ける。
「その後も、度々いたわ。私が家に帰ると、部屋の真ん中で涙を流しながら仰向けに、まったく動かずにいるの。動かないし、喋りもしない。それで、最初こそ怖かった私だけど、何度も何度も目の前に現れられたらね、さすがに慣れてくるのよ」
「慣れるものなのか」
「人間はどんなことにも慣れてしまうものなのだ、って、何処かで見た文言だってあるくらいだし。慣れる生き物なのよ、人間というのは。慣れて、慣れてしまって、異常に対する心の働きが鈍くなってくる……私が幽霊を怖がらなくなったのも、そういう理由なんだと思う」
「でね」と諏訪さんはさらに続ける。
「慣れてきたら、よくよくその幽霊を眺める心の余裕っていうのかしらね、そういうのが出てきたの。それでその女の子の幽霊をじっと見てみたら、なんと────」
間が生じる。
「な、なんと……?」
「とっても綺麗なの、その子。夕陽ヶ丘高校の中でもなかなかいないぐらいの美人さん。比肩できるのは私だけだって断言できるわ」
「すごい自信だ……」
「でも私が綺麗なのは実際事実でしょ?」
当たり前でしょ、とばかりに諏訪さんは言う。凄まじい自信だが、諏訪さんが綺麗なのは実際事実なため、俺は苦笑しつつも首肯した。「よろしいよろしい」と諏訪さんは満足した様子。
「黒くて艶のある長髪に、切れ長の目、でも決して細くはないぱっちりとした瞳。鼻筋もすっと通っていて、こぶりな唇。ただ死んでるみたいに動かないというだけで、その子はキレイだった。きっと声も、キレーなんでしょーねー。たぶん死んでるでしょう事実がただただ残念だわ」
「そこまで褒めるぐらいなら見てみたいな。俺も、その子をさ」
「アンタは私を先に見てしまってるから、インパクトは薄いでしょ」
ほんとにすごい自信だ。そしてそれは間違っていない。正当な自己評価というものになるのだろう。でもすごい自信。すごい。
「害はないのよ。少し時間が経てばスーっていなくなるし。それにその子が出てくる条件みたいなのも決まってるみたいで、私一人だけのときしか出てこないの。友達といっしょにこの部屋に戻ると、ぜったい出てこない。シャイなのかしらね」
そこまでを言うと、また一口、諏訪さんは手元のコーラを飲んだ。つられて俺も、自分の分を口にする。
「相談というのはそれだけ……んー……これ相談というほど相談じゃないわね。ただ話を聞いてもらっただけだわ。まあ、いいかな。人に話して、すっきりしたのも確かだし」
「消したいとは思わないのか?」
「その子を?」
「ああ」
「さあねえ。死んだ後も出てくるってことはなにか未練あってなのでしょうけれど、害はないし、綺麗で目の保養にもなるし……ちょっと不気味に思うときもあるけど。さすがにいきなりガバッと起き上がったりされたら、私もう家に帰れないと思う。そのときは泊めてね、クノキくんっ☆」
にっ、と爽やかな笑顔だ。
冗談と分かっていながらもその申し出に怯んで、「あ、ああ」と曖昧な返事しかできなかった。
「私からのお話はこれでおしまいっ。あとはまー、コーラでも飲んでテキトーに喋ってくつろぎましょーか、クノキくん。あくまでお友達の範囲内での接し方でね、お互いに」
「わ、分かってるよ」
「ごめんね。私ってけっこうモテるけど、ああいやめちゃくちゃモテるんだけど、本命はきちんといるんだ」
なかなか衝撃的な発言を聞いた気がする。
「冗談みたいな口調でしょ?」
「うん。まあ……」
「でも、これだけはずっと変わらない、私にとっての真実なの。目に見えるもの見えないもの全部が歪んでしまっても、この気持ちだけはずっと変わらないわ。そのために私、どこまでも頑張るって、決意したもの……」
そう言う諏訪さんの目が、一瞬だけ遠くなったように見えた。見えただけだ。
「いいえ。もう、この話は止めましょ。しめっぽくなるだけ。今の雰囲気にそぐわない。やめやめ。おしまい。しゅーりょーです」
「ははは……」
よほど、諏訪さんはその相手とやらを好いているらしい。少し、残念な気分なのも確かだ。
まあそれはそれとして、芽生えたかどうかも分からない俺の恋愛は失われたというわけだ。こんなに綺麗な子に好かれるとは、その本命の相手というのはいったいどれほどの人間なのか。俺と同じ学校なのだろうか。
「実るといいな」
彼女の恋であろうものを、応援したい気持ちも、まああるにはある。コーラに口をつけつつ、俺はそんなことを思った。
「うん……あ、でもね、その人と再会できるまでのツナギで良いなら、別にアンタとお付き合いしてもいいわよ」
あっけらかんと、諏訪さんはとんでもないことを言う。コーラ吹き出すかと思ったわ。
「でも勘違いしないでよね、今アンタに言ったこと、他の誰かに言ったことなんてないから。私が誰とでも付き合うような尻軽とは思わないで。私のお尻はきちんと重いし、きちんと人を見てるつもり。見て、判断して、この人なら……って決断してる」
「そ、そうなんだ……」
「光栄に思うことね、アンタは選ばれたんだから。この私にね」
注ぎたてのコーラみたいに溢れ出す自信でもって、彼女は宣言する。その潔さに、自然、こちらも笑みが零れた。
「俺のことはともかく、またその人に会えるといいね」
「うん……あーあ。また会いたいなーって思うのよ。また会って、またお話してぇ、それでそれでっ……えひひっ」
ヘンな笑いをひとつすると、諏訪さんはテレビの電源を入れた。薄型のテレビだ。
テレビ画面の中ではニュース映像が流れていた。隣町の月ヶ峰市の飲食店で食い逃げがあったらしい。なにやってんだと思う。
「あははっ。食い逃げだってー。よくやるわねー」
笑う彼女に、俺も笑みを浮かべて返す。
そして俺は、諏訪さんの住まう105号室にしばらく留まった。




