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彼女の家にいた

『メゾン朝陽ヶ丘』と建物の入り口に看板が取り付けられていた。

 木造の、少々古びたアパートである。外側に設けられた鉄製の階段も所々が塗装が剥げて錆があり、経過した年月の長さを思わせる。曇天に翳り、建物そのものが湿った雰囲気を醸し出していた。幽霊とか出てきそう。

 未だ降り止まぬ雨の下、夕陽はくるりと俺を振り返り、


「ようこそ、桜利くん。私の今の家へ」


 そんな、言葉。


「はは……お邪魔します」

「ふふ。どうぞこちらへ」


 連れられ向かった彼女の部屋は、アパート一階の、104号室だった。4……4か。不吉な数字だ。


「やっぱり、気になる?」


 俺の思うところを察したのだろう、夕陽が苦笑いを浮かべた。


「4って数字、普通のアパートはないんだろうけどね。空いてるのがここだけだったんだって、お父さんが言ってた。だから仕方なく……というわけ、です。はーあ、9はないのにね……」


 あーあ、と夕陽はコミカルに肩を落とす仕草をした。彼女のそんな動作は珍しい。


「とりあえずは中に入りましょ。タオルも持ってくるから」


 手慣れた所作で鍵を開け、「どうぞ」と夕陽が扉を開ける。

 中は薄暗かった。当然か。無人の部屋に電気は点かない。


「少し、ここで待ってて。すぐにタオル持ってくる」


 先に靴を脱ぎ、夕陽は小走りで仕切りの扉を開け、奥の部屋へと入っていった。


「……」


 体中から水滴が垂れ落ちる。濡れ女ならぬ濡れ男という現状である。

 玄関扉には郵便受けがついている。ここに、あの写真が入れられていたのだろうか。あの恐ろしい写真、今はまだ、俺の部屋の机に入っている。

 玄関から奥の部屋へと続く短い廊下の上には、同じくびしょ濡れだった夕陽の足跡がはっきりとついている。足跡は人間が残すものだ。生きて、動く生物である証。

 数十秒も経たないうちに、奥から、両の手に薄緑色のタオルを持った夕陽が出てきた。


「はい、桜利くん」

「ありがと」

「暖房もつけたから、ちょっと経ったら温もってくるわ」


 片方を受け取り、礼を言う。

 ふわりとしたタオルで、髪や顔の水滴を拭いとる。洗濯して間もないのか、澄んだ甘い香りがした。夕陽もまた、長い黒髪や首元を拭いていた。服の水滴もできるだけ拭き取り、終わるころにはタオルはぐっしょりと濡れて重くなっていた。


「そろそろ、部屋の方へ移動しましょ」

「ああ、だけど……」


 靴まで濡れている。感触的に、靴下も濡れている。


「濡れてるからとかそういうの気にする必要なんてないよ。いつまでも玄関にいたら風邪を引いてしまうもの。そっちの方が大事だし」


 気が引けている俺へ、ふふと夕陽が言う。終いには「ほらほら」と俺の手をひっつかみ、無理やりにではない、優しい力で引っ張り始めた。振り払おうと思えばすぐにできるような力だ。


「わ、分かったよ」


 だが、その必要はない。

 夕陽に手を掴まれたまま、数歩で終わる短い廊下を渡る。彼女が扉のノブを掴み、回そうとしたところで、おもむろに俺の方を振り返り、ふふんとからかうような笑みを浮かべた。けどそれは完ぺきではなく、どこか、ぎこちない。無理に繕っているような感触の笑みだ。


「もしかして、緊張してる?」

「なにが?」

「桜利くんって、女の子の部屋に入るの初めてなのかなぁってふと思ったの」


 緊張。緊張か。

 ないといえば嘘になる。あるといえばあるだろう。

 ただ、夕陽の考える緊張とは、少し毛色が違っている。

 まだ俺は、目の前の少女に対する推測に結論を出せずにいる。その為の緊張だ。


「してる」

「ふ、ふうん……? してるんだ。そうなんだ……ま、まあ、私も……してはいるんだけど」


 片手はドアノブを、もう一方は俺の手を握ったまま、夕陽はむむむと、視線を俺から外した。距離は近く、彼女の端整な顔がよくよく窺える。その顔への見覚えは、つい最近から発生したものだ。それ以前には、俺は彼女を知らなかった。あの日、パンをくわえた彼女に追いかけられた日に、俺と彼女の面識は生じた。それ以前は……


「そ、それで、それで桜利くんは、女の子の部屋に入るのって初めてなの?」


 視線は逸らされたまま、そんな質問。


「……ない、な」

「え?」


 思っていた答えと違ったのか、夕陽に聞き返された。


「未知戸さんの部屋は? すぐ隣の家でしょ?」

「いつも来る側だからなぁ……」


 窓の鍵を閉めてさえいなければ、陽香は勝手に入ってくる。

 

 ……。

 思い返してみれば、俺が陽香の部屋に入ったことは一度もないのか。窓越しに偶々部屋の中が見えることはあるが、普通の、一般的な部屋に見えた。


「そうだったんだ。意外だわ。家が隣同士だし、未知戸さんはあんな様子だし……お互いにお互いの部屋に入ったことがあるのだと思ってたから」

「けど、ないみたいだな。俺も、改めて考えてみると意外な気分だ」

「そっか。桜利くんは女の子の部屋に入るの、初めてなんだ」


 ふふ、と何故だか夕陽は笑い、笑い、扉を開ける。


 開かれた扉の先の、夕陽の部屋は。

 綺麗で、清潔で、しっかりと掃除されていて──なにも、ない。

 まず漠然と抱いたのはそんな印象だった。だが、空っぽで全く何もないかというと、そうではない。真正面にはカーテンで閉じられた窓がある。部屋の真ん中には暗色の絨毯が敷かれ、その上にテーブルがある。テレビ台には小さなブラウン管テレビが乗っている。天井近くにはエアコン。電灯。あるものといえば、それだけだ。


「まずは、ごめんなさい。初めて入る異性の部屋が、こんな殺風景なもので」

「……なんだか、夕陽らしい部屋だな」


 シンプルで、無駄を削ぎ落とした室内。

 皮肉でも何もなく、ただ一乃下夕陽らしいという感想を持った。必要最低限のものしかないということは、痕跡が容易く消えるということに相違ない。何もなく、何も残らない。そんな部屋だった。実体がなく、生活感がない。生きている過程を、生の感触を、この部屋は放棄している。


「ふふ……寂しい部屋でしょ?」

「……ああ」


 自嘲的な笑みを伴う夕陽の言葉に、首肯する。この部屋は寂しく、もの悲しい。部屋の主がいつ消えても構わない、と諦観めいた雰囲気を纏っている──ように思う。


「……着替えをまとめるまで、好きに座ってて」


 促され、絨毯の上に座る。

 夕陽がそっとテレビの電源を点け、クローゼットへ近寄った。


「……あまり、こっちを見ないでくれる? 見られたくないものだってあるし」 


 眉を顰め、そんなことを言われた。


「見られたくないもの?」

「…………下着」

「ごめん」


 すぐに振り返り、テレビへと向く。

 ニュース映像が流れていた。一人の少女が変死体となって見つかった事件についてだった。現場となった場所の俯瞰映像が映し出され、次いで現場のリポーターが黄色いレインコート姿で深刻な表情を浮かべてなにかを訴えている。青いシートが被せられている箇所があった。視聴者へ、痕跡を見せてしまわないための配慮だろう。駆けつけてきた記者の群れを、警察官が押しとどめている。雨が降り続いている。

 エアコンから送られる暖かな風を受けつつ、ぼんやりとテレビ画面を見つめる。


「準備、終わったわ」


 背後から声を掛けられ振り返ると、小さなリュックサックと学校鞄を両手に持って夕陽が立っていた。テレビとエアコンの電源を切り、立ち上がる。

 服にしみ込んだ水滴は少しだけ乾いたが、それでもまだ湿っている。それは夕陽も同様で、濡れた服が彼女の身体に張り付き、細い身体が強調されていた。少し、寒そうだ。


「ついでに着替えた方がいい。風邪を引く」

「……桜利くんはどうするの? 私の服、着る?」


 彼女が真剣な顔でそんなことを云うものだから、吹き出してしまった。


「俺は平気だよ。家に帰ったら着替えるつもりだし。女装の趣味だってもちろんない。むしろあったらイヤだろ」

「うん。イヤ。未知戸さんですらたぶんグレー判定だと思う」

「だな……まあとにかく、乾いた服に着替えなよ。俺、先に外出てるからさ」


 立ち上がり、部屋を後にしようとすると、「待って」と夕陽の声。

  

「……どうした?」

「外は寒いわ。歩いているならまだしも、ただ立って待つのは風邪を引くかも」

「だけど」

「しばらく壁と見つめ合ってて。なるべく暖房の風が当たるところでね。終わったら終わったって言うから」


 じっと、再びエアコンの電源をつけつつ夕陽は俺の目を見つめて言う。有無を言わさぬ気迫に押され、「は、はい……」と答え、俺はエアコンからの温風が良い具合にあたる場所で、壁とにらめっこを開始した。


「耳、塞がなくてもいいのか」

「そこまで気にしないわ」


 パサ、という衣ずれであろう音。

 トサ、と服が床に落ちるだろう音。

 トントンという軽やかな足音。

 それらが連続し、聞こえる。

 暖房あたたかいなぁ、とひたすら思い続け、背後の、やけに近くで聞こえる音から気を逸らし続けた。


「終わったわ」


 淡白な終了の言葉に、「そうか」と俺は立ち上がり、振り返る。

 さきほどのように、小さなリュックサックと学生鞄を両手に持った夕陽が立っていた。暖色のコートを羽織り、温かそうだ。これなら寒くもないだろう。


「片方持つよ」

「……ありがとう。それじゃあ、鞄をお願い」


 そして俺たちは、夕陽の住まう104号室を後にした。

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