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彼女の家に行った

 黒とも白ともつかない曇り空のもと、俺と夕陽は傘を差し、降り注ぐ雨粒の弾ける音を耳に聞きながら、住宅街の道を二人並んで歩いていた。

 肌寒い。

 十一月の雨は、やっぱり冷たく、身に凍みる。


「寒いわ」

「だな」


 短い会話。「あ、次の角を右に曲がるから」と夕陽。「おっけー」言われた通りに、俺たちは目の前の横断歩道を渡らず、歩道を右に曲がる。


「そういえば、桜利くんって私の家に来たことがあるんだっけ?」

「前に睦月先生の車で送られたとき、ちらっと見たぐらい」

「……睦月先生? 霜月先生のこと?」


 ……ああ。

 そうだった。


「間違えた」

「ふふ。間違えるにしても、なんだか変な間違え方」


 夕陽は、俺が間違っているのだと確信している。


「夕陽。急に変なことを言っていいか」

「ええ。どうぞ」

「霜月先生は、いったいいつから霜月先生だと思う?」

「……それって、禅問答の類?」

「いいや、単純な俺からの疑問。率直に答えてくれると嬉しい」

「桜利くん。きみのしたその質問がおかしいことは、自覚してる?」

「もちろんだ。俺はおかしなことを言っている」


 ぴた、と夕陽が立ち止まったため、俺は踏み出そうとしていた一歩を元に戻し、その場に止まった。紺色の傘を差した夕陽は、パラパラポツポツと音を連ねる雨のもと、俺を無言で見つめた。心なしか、彼女の双眸には悲しみが漂っているように見えた。見えただけだ。実際どうかは知らない。


「まずは、常識で答えるわ」


 数拍、だっただろうか。ゆっくりと、夕陽は言う。雨音、車が過ぎゆく音、風の音、笑い声、すべての音の中、俺の耳にひと際強く聞こえる声で。


「霜月先生は、ずっと霜月先生よ。桜利くんよりも霜月先生と出会った時期が遅い私だけど、最初に挨拶をした時から霜月先生は霜月先生だった」

「……だろうな」


 間違いが正しい。

 正しいが間違い。

 全てがさかしま。正しくあろうにも、現実が否定する。

 おかしいのはお前だ、と俺に言う。おかしくあろうとしたことなんて一度だってない。


「もう一つは、私個人の意見」


 そう言うと、夕陽はす、と一歩踏み出す。俺の方へである。

 なぜ、と思う間もなく。

 彼女は俺の手を、傘を持っていない方の手を握りしめる。

 両手で、だ。自らの傘を放りだしてまで、自らが雨に打たれることなど何ら気にしないとばかりに、そうして──「私は、きみの正しさを信じたい」


「また、ひどい顔してる。でも今度は恐怖ではなく、置き去りにされて途方に暮れている子どもみたいな表情だわ。どうすることもできなくて、それでいて寂しくて寂しくて仕方のない、顔」

「……そんなに、ひどいか」

「そんなに、ひどいの」

「そっか」


 置き去りにされた。

 現実が遷り変る。皆は平然と受け容れられるのに、俺だけが異常を覚える。確かに、置き去りだ。俺は置いて行かれてしまった。条理は、俺の下から逃げて行ってしまった。常に俺と一体化していたはずの条理は……。


「安心して。心配しないで。きみは正しい」

「なんでそう、言い切れるんだよ」


 彼女は、俺の正しさを信じようとしてくれている。

 現実が異常だと断定している俺を正常とみなそうとしてくれている。

 どうしてそこまでできるのだろうか、言い切れるんだろうか。俺は分からない。俺を信じられる彼女が分からない。理解できない。 


「きみがそこまで心をすり減らしてまで悩むようなことだから、かな。きっと桜利くんは、なにが正しいのか自信がなくなってきているんじゃないかって思ったし。嘘を吐くような人間じゃないきみが自分が間違っているんじゃないかって真剣に頭を悩ませるようなことだったらね、それはもう逆に、きみの正しさを証明しているんじゃないのかなって。ふふ、言ってて自分でも分からなくなってきたけど、そういうことで」

「そんな理由で、俺を信じるのか」

「私にとってきみは、そんな理由で信じられるほどの相手なのよ」


 真正面から、だ。

 真っ向から、夕陽は俺にそう言ってくれたのか。


「……。はは……」


 傘を放ってしまったため、夕陽は直に雨に打たれている。

 彼女の頭上に傘を差そうにも、もうすでに降りしきる雨が彼女を濡らしきっていた。励まそうとしてくれた夕陽がびしょ濡れで、励まされた挙句にぼんやりと彼女の言葉を聞いていただけの俺が濡れていない。

 これじゃああまりに、「桜利くん? なにを」不公平だ。


「これでおあいこだ」


 手に持っていた傘を放る。

 途端、身体の上部に、次々と冷たさが打ち当たる。


「おあいこって……」

「なんのおあいこなのかは、正直俺もよく分からない。ただ夕陽が雨に濡れて、俺が濡れていないのが……その、許せなかった。俺が、俺自身を……」


 案の定、夕陽はきょとんとしている。俺のいきなりの奇行と妄言に、虚を突かれた様子だった。「ふ、ふふ」なのに、すぐに、手を口元にあて、楽しそうに、嬉しそうに、彼ヂょは笑いだす。わらいだす。

 

 黒い影が、カタカタと俺の目の前で揺れて、震えて、


「ひ、ひひっ、ひゃはっ」


 笑う、


「ひひひひひっ、えひゃっ」


 嗤う、


「きゃはっ、は、あははっ、ひひっ」


 哂う。


「あっひ、ひひっ、えひひひひひひひひひっ」


 俺の認識の正しさを信じるということは、目の前の彼女の姿を真と断定することに他ならない。ヂヂ 降り注ぐ雨が冷たく、身に凍みる。


「ふふふ、ついつい笑っちゃった。それじゃあ桜利くん、濡れ鼠二人で、行きましょ? 私の家、もうすぐ着くから」


 人間の笑顔を浮かべる夕陽が、彼女と俺の分の傘を拾い、「こんなに濡れてしまったら、今更差したところで意味がないわ」と傘を閉じた。


「だな。冬の雨に打たれる経験って、なかなかできない」

「ふふふ」

 

 並び連れ立ち、しとどな俺たちは歩き出す。

 もう人間の姿の彼女は、雨に打たれているというのに、本当に幸せそうに笑ってくれていた。

 俺は、俺の正しさを──彼女が信じてくれたように──信じたい。ただ、俺は俺の認識全てを信じたくは……たぶん、ない。

 どうか、俺の認識は正しく、そして間違っていてくれ。

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