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着替えを取りに出た

「ご迷惑を……本当にごめんなさい」


 しばらく泣き、涙の止まった夕陽が言う。

 なぜ泣いてしまったのかは気になるが、彼女に聞くのは……どうだろう。ダメなのだろうか、やはり、人の心の、恐らく繊細な域にまで踏み込んでしまうというのは。


「それで、ユーヒはなんで泣いちゃったの?」


 悩んでいると、陽香がストレートに切り込んでいった。この子すごい。


「私にもよく、分からない……たぶん、分かってないでしょうけど、ひとつだけ、はっきりと思い浮かんだことはあったの」

「ふーん。どんなこと?」


 すると夕陽は俺の方を向き、目を薄く細め、口の端を優しく微かに吊り上げた。今までに見た彼女のどんな笑みよりも柔らかな微笑を浮かべ彼女は、


「嬉しかった。とても、とてもね」


 そう言い、彼女は言葉を続ける。


「自分でもよく分かっていなかったけど、言われて分かったの。ずっと言ってほしかったことを、言ってほしかった人に言ってもらえたんだって」


 ふふ、ふふ、と。夕陽は幸せそうだ。目元につい先ほどまでの涙の跡を残し、現在の幸福に彼女は浸っている。遠慮してほしくないがための言葉だったが、予想外の反応が返ってきたため気恥しくなり、俺は照れ隠しに苦笑した。


「むむ……。なんだか、悔しい気分だわ」


 小さく零すと、陽香は「そ、それはそれとしてだけど……」と話題を変える。


「私ちょっと、お父さんとお母さんに言ってくる。オーリや舞ちゃんが寂しがってるから、今晩からいっしょにいてあげることにした、って」

「寂しがってるて」

「なに? 別にそれでいいでしょ。殺人犯に狙われているかもしれないからみんなで一緒にいることにします、なんか言ったら心配どころの騒ぎじゃなくなるし。あんまり、心配かけたくないし」


 むう、と陽香は口をへの字にした。親に心配をかけたくない。もっともだ。陽香の親御さんとは家が隣同士のこともあるため、小さい頃から、それこそ小学生以前ぐらいからの知り合い。二人とも、ほんわかとして優しそうな人だという印象を、もう十年近く抱いている。


「じゃ、ちょっと行ってくるから。ついでに着替えも持ってこよーっと」


 とんっと、軽やかなステップで一歩踏み出すと、「じゃねじゃねお二方、また後でー」と家を出て行った。

 ガチャン、と玄関扉の閉まる音。

 そうしてまた、雨音のみが部屋の中に響いた。この雨、今日中には止まないだろうなあ。


「あの、桜利くん」


 あまりにも静かなため、テレビをつけようかどうか悩んでいると、夕陽がおもむろに口を開いた。


「うん?」

「その、ね……とても、申し上げにくいんだけど……」


 視線を伏せ、両手をもじもじと落ち着かない様子で夕陽は言う。


「私も、着替えを取りに、一度家に帰りたくて……それで……」


 言わんとすることは分かった。言いづらいのだろうということも。

 だから代わりに、二の句を継いだ。


「分かった。ついて行く」

「……うん。ありがと。ごめんね。迷惑ばっかり、かけてる」

 

 申し訳ない、と夕陽が謝った。不必要な謝罪だ。


「いいんだ」


 表情に陰を落とす夕陽の頭に、自然な流れで手を置こうとし、頭に触れる前に止まった。無意識に身体が止めたらしい。なぜだろう、と考える。俺の身体が、意識が、彼女に触れることを忌避したのか。彼女が死であると俺自身が認識している為からか。だから止めた。俺が自分から彼女に触れてしまえば、いったい何が起こるか分からないから。彼女が俺の死であるなら。俺が自分の意思で彼女に触れたその時、死ぬ、かもしれないから。生き続ける為に、俺自身が俺を彼女に触れさせない。……馬鹿々々しい。

 止まった手を、そのまま動かし、夕陽の頭に今度こそ優しく乗せた。


「……?」


 きょとん、とした瞳で、夕陽が視線を上げる。上目遣いに見つめられ、さっと俺は視線をそらし、「なにも気にすることなんてない」とだけ言った。夕陽が気にすることなど何もない。

 すぐに彼女の頭から手を離し、その手のひらを見た。

 いつも通りに、俺の手のひらだ。

 それにほら、死んでいない。俺の心臓の鼓動は続いている。

 そもそも、夕陽に触れる触れないは、今日以前に済んでいる。あの、初めて金髪少女と和服女性の幽霊を見たあのときに、俺は彼女の要望もあったが自分の意思でその手を握っている。人間の手をした彼女の手を、引っ張っている。もし死ぬなら、そのときにはもう死んでいるだろう。


「どうする? 早いうちに着替えを取りに行くか」

「うん……そう、だね。そうするわ」


 陽香にはとりあえずテーブルの上に書置きを残し、舞にも夕陽が泊ることと着替えを取りに行ってくる旨を伝え、俺たちは、俺と夕陽の二人は、そろって玄関を出ようとして──「ちょっと、ごめん」と夕陽に言う。


「どうしたの?」

「写真……ちょっと、机の中に入れてくる」

「あ……そう、ね。お願いします」


 複雑な表情の夕陽に見送られ、俺は一人、自分の部屋へと戻った。

 机の抽斗を開ける。一番上の、使い古しのノートやら鉛筆やらが雑多に入っている箇所である。その一番上に、裏返した状態で写真を二枚、置く。


「……鍵も、閉めておくか」


 念のため、抽斗の鍵を閉め、上着のポケットに鍵を押し込んだ。

 これでいい。写真自体は、後々に夕陽と話し合ったうえで茂皮さんに渡すかを決めよう。


「ごめん。待たせた」

「ううん。全然」

 

 玄関で待っていた夕陽と共に、外へ出る。

 ざあざあと、やはり雨は降っていた。

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