『モルスの初恋』
17
ざあざあと、風が強まってきた。
空は変わらず晴天であり、泳ぐ雲の姿はない青一色である。太陽の光は降り満ちて、擦り合いざわめく葉の音のみ響く静寂に満ち満ちた霊園内を照らしだす。
人の姿はない。
桜花以外の誰かの気配はなかった。
今、未明ヶ丘西霊園の敷地内にいる生きている人間は、条理桜花ただ一人。つい先ほどまでは二人だったが、一人殺された為に、もう、一人だけ。それ以外には誰もいない。……ああそういえば、もう一人いたっけか。管理棟の中で居眠りをしている、主要ではない役柄の、どうでもいい人間が。その男はこの物語に関係ない。
「お、ぜ……」
園内の唯一の生者である桜花が、そうして死体を見つけた。
つい先日殺されてしまった同級生の墓の前に、ついさっき殺されたばかりの同級生の出来立てほやほやの死体が転がっていた。着ていた服はすっかりはだけ、露わに肌を曝け出している。同年代の男子生徒の目を釘付けにした魅力的肉感を持つであろうそれが、桜花の視界に映っているはずだった。
「なんで……誰が、こんなこと……」
だが、なかった。
そこにあるはずの豊かな乳房は綺麗に切り取られていた。双丘は麓から削がれ、辺りは一面、血だまりとなっていた。胸元を染めあげる血の赤に混じる微かな黄色が桜花を覗いている。
小瀬静葉の瞳は、虚空に向けて見開かれていた。
なにか恐ろしい目に遭ったのか、涙の跡が残っている。
死んでいるのは瞭然だった。身動き一つしないのだから。
呆然と、桜花は彼女の死体を見つめていた。
胸の傷から溢れ出た血が、彼女の周囲の石畳を赤く染め上げている。目を奪われたことが確かにある、彼女の大きな胸部はなかった。
では、その切り取られたのは何処に行ったのかと言えば────「オーカっ」
「お前……」
粘着性の赤い液体を未だ流し続ける生首。滴る目に鮮やかな赤色と、スプーンでぐちゃぐちゃにかき回したプリンみたいな黄色が混ざり合いながら麓から零れ出ている血色の良い乳房。桜色の先端部。それ以外は黒い影。アンバランスな身体を一目見て、桜花はこみ上げる嫌悪を覚えた。
薄気味悪い。気味が悪い。気持ち悪い。
喉元にまでせりあがってくる嘔吐感。
「お前、が……! う、おぇっ」
膝をつき、石畳に向けて喘ぐ。今の死は、やはり桜花の目にも気持ち悪く映ったのだろう。生首と乳房だけが肉感を持った黒い影。人の造形としてこの上なく不自然で、今までに見たどんなものよりもグロテスクな外観だった。
「ど、どうしたの、オーカ」
「近寄るな……! 近寄るなぁ!」
心配そうに近づいてくる死を、桜花は凄烈な形相で拒絶した。死は、彼女はただ純粋に心配をしていたのだが、その姿があまりにエグすぎただけだ。生とはかけ離れ、化け物めいていただけなのである。見る人間の嫌悪を刺激するに十分すぎる姿だったのだ。
猛烈な嘔吐感をこらえ、桜花は踵を返し、もつれながらも走り出した。駐車場まで必死に走り、転げるようにアスファルトに膝をつき、ぜえぜえと息を切らしつつポケットから携帯電話を取り出し────警察へと、コールした。
18
鬼のような表情で拒絶され。
ものすごい勢いで逃げられ。
「……」
死は呆然と、その場に立ち竦んでいた。そして、先日手に入れたばかりの顔の眉尻をさげ、なんとも悲しそうな表情を浮かべる。ついさっき手に入れたばかりの胸を見下ろす。
「オーカ……」
認識はしてくれた。
はっきりと真正面から見てもくれた。
それはとても嬉しいことだったが、認識されたからこその問題が発生してしまった。『私』に対する、恐怖と、拒絶だ。悲しいことだが、事実だ。
しょんぼりと、そうして死はその場から消え去った。
彼女の受けたショックは計り知れない。しかしながら、なぜ拒絶され、恐怖されたのかは検討がついた。生者である彼と自分とでは、明確な差がある。
身体に影が混じっているか否か、だ。
条理桜花や道戸穂乃果──死、以外の人間すべてが、人間のパーツのみで構成されている。死のように、真っ黒で影のような部分は一切ないのである。だから恐ろしく見えて、だから嫌悪と嘔吐を引き起こす。
まだ、身体が十全ではない。
顔と胸しか、まだ、ない。
人間の身体として完成していない。
なら、完成させなきゃ。
そうすれば、きっと。




