写真について話した
「あー……出てきた。出てきたわ。魂まで出てくるかと思った……もう……まったく……あ、また思い出したら……うぷ……」
真っ青な顔色で、陽香は口元を押さえた。
「大丈夫か」
声をかけ、彼女の背中をさする。陽香は涙目で俺を見上げると、「んーん」と首を横に振った。大丈夫ではないようだ。当然か。
「び、ビニール袋かなにか、持ってくるから」
夕陽がそう言って立ち上がると、困惑した様子の舞が「それならこっちにあるよ」と彼女を先導し始める。舞にはあの写真を見せていない。だから妹は今の状況を理解できていないだろう。それでいい。見せてはいけない。舞の心が傷つくだけだ。この子を巻き込むべきではないのだ。
「トイレまでもちそうか」
尋ねると、陽香はふるふると首を縦に振る。彼女の傍らにいるため、首の動きに合わせて上下するサイドテールのさきっぽが俺の頬をくすぐった。
「へい、き。だいじょうぶ。おちついた。もうおちついたわ」
そうは言っているものの、陽香の表情は依然青ざめており、視線はぼんやりと虚空を見つめている。
「未知戸さん、大丈夫?」
ビニール袋を広げた夕陽が戻ってきて、問う。陽香はゆっくりと首を縦に振った。
「お、お茶、持ってくるー」
舞がそそくさと台所へ行き、すぐさま茶葉の入った急須と湯気の立っている湯呑を持ってくる。人数分あった。四人分。「ありがとうね」と陽香が礼を言い、両手でそっと口をつけた。
「はあ……」
一息つけたようだった。
俺たちもまたお茶に口をつけ、熱を持った液体が喉を通り抜け、胃を温める。嘔吐感ももうだいぶ治まっている。みんな落ち着いたらしく、部屋の中に満ちていた焦りのような感覚は、すっかりと消え去った。
「……ごめんなさい」
静かな室内に、そんな夕陽の謝罪が生じる。
「ユーヒ、気にする必要なんてないわ、謝る必要だってない。あんなものを一人で見て、一人で抱え込めなんて、無理なおハナシだわ。私やオーリにだって無理よ。誰かに言わないと、怖くて怖くておかしくなるもの」
「だな。一人で抱え込めないほどの恐怖はみんなで分け合うべきだ。そしてこれは、」
と、俺は現在自らのポケットに入っている写真を服の上から叩き、
「めちゃくちゃ、恐ろしい代物だよ」
そう言った。生々しい死が写されているこの写真、できるならば、もう二度と見たくない。
「……うん」
頷く彼女は、やはり弱弱しい。
「わ、私もー?」と舞が口を開いたので、「お前は見てはいけない」と注意をしておいた。
「ごめんね、舞ちゃん。仲間外れみたいと思っちゃうだろうけど、これは……そうね、ダメなものだから。私たちには縁あることだけど……あなたを巻き込むわけにはいかないわ」
陽香が優しく諭す。舞は、聡明な我が妹はことの重大さを察しているのだろう、なにかを言い返すでもなく、「分かった」と頷いただけだった。そして立ち上がると、「私、部屋に戻ってるね」と、階段を上っていった。今から俺たちが話す会話に、自分が混じってはいけないと思っての行動だ。気を遣わせてしまった。
「やっぱり舞ちゃん、良い子だわ。さすがは私の義理の妹ね……」
舞が階段を上っていく足音を聞きながら、神妙な表情で陽香が言う。
「……そうだな」
「……オーリ?」
「なに?」
「今のは婚約と受け取っていいの? 私が義理の妹と言ったことに対して、あなたは否定をしなかった。それどころか肯定した。ということはつまり、婚約成立ってことでしょ?」
違うの? と陽香が聞いてくる。純粋な瞳だった。
「良い子と言ったところに頷いたんだって思っておいてくれないか」
「いやだけど?」
「いやなのかー……」
どうしたのものかなぁ、と考えてたら、夕陽がこほんとひとつ咳払いをし、「婚約云々は置いておいて、とりあえずは話し合いましょう」と言った。「ユーヒってけっこうヤキモチやきでしょ?」と陽香が言った。夕陽は無視した。
「写真、どうしましょう。やっぱり警察の方に言ったほうがいいのかしら」
俺のポケットを見つつ、夕陽が言う。
「俺のところに来た警察の人も、なにかあったらすぐに言ってほしいと言ってた……けどこれを、どう説明するべきか。家のポストに投函されていました、はいそうですか、では絶対済まない」
「ユーヒ、あなたゼッタイ犯人といったいどんな関係があるのかって問いただされるわよ」
「はあ……どんな関係と言われても。私はまず、犯人というのが誰かというのもまったく分からないのに。身に覚えというのも、もちろんないわ。恨まれるようなことだって、したことはないの……」
沈み切った声色で言いながら、夕陽はゆっくりと首を振った。まるでまとわりつく悪夢を振り払おうとしているかのようだ。悪夢。悪夢。まさにそうだ。悪夢だ。現状。この状況は。ならばこの夢この悪夢、果たしていつに覚めるのか。
「この写真に犯人の指紋がついているんじゃないの?」
「そうかもしれないが、もう俺たちの指紋もついてしまっている。そもそも指紋対策をしていることだってあり得る」
「手袋してたりとか?」
「ああ。……けど、俺たちでは到底見つけられない重要な情報が、この写真に写り込んでいる可能性だって否定できない」
言うべきか。言うべきだろう。
俺たちでは無理でも、警察ならこの写真から得られるものがあるのかもしれない。この写真を、真実の一欠けら足りえるようにすることが可能かもしれない。
言うべき。そう。言おう。夕陽は少し、警察からの質問責めで大変な思いをするかもしれないが──「っ!?」
ピカッ、と薄暗い室内に光が走った。「うわ、か」と陽香が言いかけた瞬間、ドォンという凄まじい衝撃と音が耳朶に突き立った。身構える間もなく、驚きで反射的に身体が跳ねる。右腕ががしりと、なにかに掴まれた。
「は、はー……なに、今の。ちかすぎ。雷一気に近くなりすぎじゃな……い……」
陽香の言葉が再び止まる。彼女の視線は俺の方を、というよりは俺の右腕側にいる人に向いている。右腕にしがみついている夕陽に向いてる。
「……」
目を見開いて、無言の陽香。
怯えたように右腕を離さない夕陽。
薄暗い室内、外は雨。雨音だけが、この場を満たす。
「……」
陽香が何も言わず立ち上がり、つかつかと歩み寄ってきて俺の左側に座った。そして、俺の左腕をがしりと掴み、己が胸元で抱き締めた。
「……私は憎い。自分が憎いわ。あの雷で怯え切ってオーリに飛びつかなかった自分の強さが憎い。ユーヒ、次は、負けない」
何も言わず、俺は両腕を掴まれている。両者とも離してくれる様子はない。ちょっと前にもこんなことがあった気がする。あのときとは違って、引っ張られていないだけマシか。
「う、う……!」
夕陽は意味のある言葉を言わず、言えず、微かに呻きながら俯いてふるふると怯えている。彼女の顔から零れ落ちる粒が、ぽつぽつと、服に浸み込み、ソファーに弾ける。
「夕陽……」
……そう。そうだよな。この子は、限界だったんだ。
会ったばかりの人間の死を知らされ、更には直接届けられた死体の写真を見てしまった。真っ当に生きていれば到底見ることがないであろう凄惨な状態の、何かしらの意思を──きっと悪意に違いないだろうが──伴い人為的に加工された死体をだ。そこにあの雷の轟音。あれで、彼女が抑え込んでいた緊張や恐怖が一気に解放されてしまった。
一人の少女が抱え込める容量を、越えてしまった。一人の、少女の。
「……あ、あれ、言い返されない……? ユーヒ、もしかして、マジ泣きしてるの……?」
いきなりの夕陽の号泣だ。いつも涼しげで、ちょっとやそっとじゃ泣きそうにもないはずの夕陽が声を震わせ泣いているのである。陽香が面食らうのも無理はない。
「ま、待って、ちょっと待っててねユーヒ。今、タオルとか、なにか気分が落ち着くような飲み物を……オーリっ、キッチンお借りするから」
「……ああ、頼む」
すぐさま、陽香は台所の方へと駆けていった。その後に続いたりはできない。しがみつく夕陽の腕を振り払うなんて言語道断だ。
「確かに……怖いものな。すごく、すごく怖いんだ……」
俺たちの受けたショックは大きい。大きすぎる。
「どうして、俺たちがこんな目に遭わなければならないんだろうな……」
俺たちは真っ当に日々を生きていただけなのに。
……ああ、いや、違うな。狂いだしてはいた。いたんだ。慣れてしまっていただけで。いつから狂い始めていたのかは、今はちょっと考える余裕がないけれど。
「とりあえずタオル持ってきたわ」
陽香が戻ってきて、夕陽の顔にそっと白色のタオルを近づける。「涙、自分で拭けそう?」そう彼女が問うと、夕陽が無言で頷く。
「あとは、飲み物はっと……ココアにしよっかな。オーリは、ユーヒをお願い」
「任せろ」
「ふふ、たのもしー。惚れ直しちゃう」
しばらくして、陽香がお盆にのせた三人分のココアをテーブルの上に置くと、「舞ちゃんにも渡してくるわ」と残り一杯のココアが入ったカップを手に、階段を上っていった。
「……飲めそうか」
尋ねると、夕陽は俯いたまま少しの時を空け、おもむろに微かに頷いた、ように見えた。
「くちうつしをご所望なのかもね、いつかの私のように」
戻ってきた陽香がそう言うと、夕陽が無言で首を横に振る。否定である。
夕陽はか細い声で「ありがとう」とだけ言い、片方の手でカップを掴み、自分で飲み始めた。もう片方の腕は俺の腕を掴んだままだ。
「……ま、落ち着くまでは何も言わないことにする。せいぜい堪能しなさい。こういうのを敵にごま塩を送るって言うのよね、オーリ」
「ごま要るか?」
「いるわよ。だっておいしいもの」
おかしなことを聞くのね、と陽香は自分の分のココアに口を付けた。
「オーリ、飲まないの? 毒なんて入ってないわ。入っているとすればそれは私の愛情だけ」
「ああ、うん。もらう」
礼を言い、カップを手に取る。甘い香りが鼻腔をついた。口をつける。温かな液体が優しい甘さを舌に残し、喉を通り過ぎていった。
「おいしい?」
「……美味しいよ。ありがとな」
俺の返事に、「どういたしまして」と陽香が目尻を下げた。




