血濡れの白ハンカチ
ねっむい。ねっっっむい。
「寝ちまってるわなぁ」
「寝ちまってるねー」
モヒカンとミツキさんの声が、まるで遠いところからのように濁って聞こえる。実際はすぐ隣なのに、眠気フィルターが音すら遮断しようとしている。
「大丈夫かぁオウちゃん。生きてるか?」
「……生きてる」
「そうかあ」とモヒカンは言うと、
「ま、休み時間ならいいんじゃね。今いっぱい寝とけよ、授業だとまたさっきみたいに怒られるぞ」
「…………そうする」
さっきの授業中も机に突っ伏し爆睡し、カンナヅキ先生に起こされたばかりだ。
モヒカンやミツキさんは気を使って俺をそっとしておいてくれるようだから、その厚意に甘えて今は眠ることにする。十分そこらの睡眠だが、ないよりはきっとマシだろう。
「くーのーきくんっ」
軽やかに上機嫌な声が、明らかに俺へと向けられている声が聞こえた。
「あれ? 寝てる? ねちゃってるー? えー? 起きて? 起きようよー。起きてってばー」
全ての人間が思いやりに満ちているわけではないのだ。そんな当たり前の事実をいま、彼女の両の手で揺すられている俺は気付かされた。一体何の用だというのか。死ぬほど眠い人間を起こすほどの用件なのか。
「……なに?」
「ん、呼んでみただけ?」
「おやすみ」
おやすみ。
「え、ちょっと、ちょっと待って。待ちなさいって。今のは冗談、じょーだんだから。ほんとの用件は別なんだって」
「……どんな用」
「とりあえずは顔あげよ? 机に向かってしゃべられるのも味気ないし」
言われた通りに顔を上げる。すぐ目の前に、諏訪さんの端整な笑顔と光り輝く黄金の髪があった。今日は二つ結びの気分らしい。
「ほら、これ」
太陽の精が大きくプリントされたクリアファイルに、数枚のA4用紙が入っている。
「アンタさ、前に夕陽ヶ丘市で起こった通り魔……いいえ、連続猟奇殺人事件について知りたがってたでしょ?」
「これは……それの、か?」
「そ。私が独自に調べ上げた超々極秘ファイル。アンタにあげる」
「マジでか……わるいな」
「でーもっ」
びし、と諏訪さんが俺の目の前に人差し指を突き付けた。
「これを読む条件として必ず心得てほしいことがひとつ! 私の貸した本を読み終えてから、このファイルを読むこと! オッケー?」
「お、オッケー……」
条件が一つ。
読み終えてから、読め。
「んふふ、めるしー。ま、読むような時間があるかは分かんないんだけどね」
「早めに読み終えられるよう努力するよ。ありがとな」
「えひひ、まー感謝しときなさいよー」
いつものエヒヒ笑いだった。
眠気は幾分か落ち着いた気がする。諏訪さんがまとめてくれたファイルへの好奇心が、我ながら並々ならないものだと分かる。
その前に顔でも洗おうかと席を立ち、「お……?」一歩足を進めると室内全体が回った。ふらりと力の抜けた足がもつれ、額に衝撃が走り、身体全体が床に叩きつけられた。
「オウちゃん!?」
「クノキくん!?」
大きな音をたてたものだから、教室内が一瞬静まり返り、皆がこっちを見ていた。
ああ、生温かい。血が出てるなぁ、こりゃ。額、切ってしまったか。
「クノキくん、頭から血が、と、とりあえずはこれで拭くね!」
ミツキさんが、なにやら白色のハンカチを俺の額にそっと当てる。血で汚れてしまうというのに、申し訳ない。
額に押し当てているハンカチを見てみると、血濡れもいいところだった。まるで赤地に白の模様があるみたいだ。額って切れるとこんなに血が出るのか。体験を持って理解するとは。
「う、ぁ……!」
か細い悲鳴だった。クラスの喧騒の最中、はっきりとその悲鳴が聞こえた。見ると、息を呑み、目を見開いている、一人の少女の姿があった。
諏訪さんだ。
真っ青な表情で、恐ろしいなにかを見でもしたかのように、諏訪さんは後ずさる。さっきの爛漫さなんてかけらもない、ただただ恐怖する者の表情だった。
「す、諏訪さん? 大丈夫か?」
心配になって呼びかけると、彼女はすう、はあと胸に手を当てて深呼吸をし、脂汗の浮かぶ顔でぎこちなく微笑んだ。
「あ、あー、ごめんね。驚かせちゃって。ちょっと、良い思い出がないのよ、白のハンカチ……ていうか、白に赤が混じったハンカチはね。イヤな思い出があって……えひ、ひひっ……」
トラウマ、なのだろうか。
そう考えている間にも、額からは血が溢れ出てくる。このまま失血死してしまいそうに思える量だ。どこか鋭利な箇所で深く切ってしまいでもしたのか。したのだろう。だからこんなに血が出ているのだ。
「とりあえずは保健室に連れて行くぜ。ほら、肩貸すから。歩けそうか?」
「わるい……」
「いいってことよ」
モヒカンに肩を貸してもらい、俺は保健室へと行った。
その後は保健室で先生にひとまず診てもらい、万が一を考えて病院へと連れて行かれた。結果としては、額を少し深く切ってしまっただけだった。脳には異常なし。傷口を縫ってもらい、包帯を巻いて終わり、だった。
家に帰ってからは眠り、死んだように眠り続け、気付いたら次の日の昼だった。遅刻もいいところだったので、その日は学校を休み、眠り続けた。起きたのは夜中の九時である。様子を見に来た母親曰く、死んでいるのかと思ったが心臓が動いていたため救急車は呼ばなかった、らしい。実際、今はこうして生きている。遅い晩御飯を食べ、部屋に戻り、さて何をしようかとなり、答えは一つだけであると気づいた。
『モルスの初恋』を読もう。
そうしなければ、俺はいけないのだ。
まだ読み終わっていない。頭に入っていない。
その後にファイルを。事件の全容が入ったファイルを。
すべてを頭の中に、そして……そして? そこから俺は、なにをする? なにかをするのか? なにもしないのか? ああ分からない……分からない。
とにかく今は、この本を読む。それだけをすればいいだけのこと。それが主軸、幹のこと。枝葉の不毛な思考は不要。不要だろう。
本を開く。
どこまで読んだかなんて憶えていない。なら、最初から読めばいい。




