屋上にいた
「う、うう……ふっ、い……」
彼女は涙を流すことに必死なようで、俺が屋上に入ってきたことに気づいていない。
「なんで、泣い……」
そこまでを口にしたところで、それが愚かな疑問であることを自覚した。
何を馬鹿なことを俺は聞いているのか。あっただろう。涙を流すようなことが、起こっただろう。
園田桜子が死んだ。隠されているが、実際には殺されていた。
学校の教室内で死んだという結果は、どういう過程を辿った末のものなのかは限定される。だからみんな、薄々は気付いている。園田は殺されたんだ、ということに。
そんな園田の死を尾瀬は悲しんでいる。いや、尾瀬だけじゃない。園田と交友の深かった人間は多いのだ。社交的な性格だった園田は、そう、みんなに好かれるような人間だった。だから涙を流している。喪失を自覚し、落涙を伴い愁嘆する。なにもおかしなことはない。
俺も、悲しんでいる。
ただ、悲しみは当人との交友の深さに比例する。そして悲しみにより涙が出てくるその閾値が、人によりけりということも関係する。
「あ……久之木くん」
どう声をかけたものか悩んでいると、尾瀬のほうが俺に気付いた。泣き腫らした双眸が、俺の姿を捉えてしまった。
「……い、いや、ごめん。ちょっと、間が悪かった」
今の俺は、それはそれはバツの悪い表情を浮かべていることだろう。
「ううん。いいよ。ちょっと恥ずかしいこともあるにはあるけど、平気」
「そっか……」
「久之木くんもお昼ごはん?」
俺が持っている惣菜パンと紙パックのオレンジジュースを見、尾瀬は言う。
「邪魔じゃなければ、ここで食べて大丈夫か」
「……うん。平気だよ」
一人分の空間を開け、尾瀬の隣に腰を下ろす。フェンスに背中を預けると、ガシャンと鳴った。パンの封を切り、紙パックにストローを刺し込む。ストローに口をつけ、吸い上げる。オレンジの酸味と甘みが口内に広がる。隣ではもそもそと、尾瀬がサンドイッチを食べている。会話はない。俺たちはお互いに無言だった。
「久之木くんも、一人になりたかったの?」
ぼそりと口にした尾瀬の言葉に、「うん」と頷く。一人になりたかった。一人で考え込みたかった。最近のこの、あまりにも異常な現状について。園田の死も、そのひとつ。異常な現状というカテゴリの一つの要素として収められてしまった。
「そっか。私もいっしょだよ……」
力のない声で、彼女は訥々と言う。
「その、サクラのことがね、あって、昨日はとてもとても驚いて、びっくりしちゃって、それで今日になって、なんだか一人になりたくなってね、それで……それで、ここにきて、サクラのこと、考えてたら……かんがえ、てたら……っ、なんだか、また、なみだ、でて、きちゃって……、う……!」
「尾瀬……」
「ご、ごめんね、またっ、ちょっと泣いたら、止まるから……」
悲しんでいる人間には、どう接すればいい?
泣いている人間は、どう慰めればいい?
自問する。する。彼女は涙を流している。
まずはその涙を、拭う必要がある。
「は、ハンカチ、使うか……?」
「あり、がと……」
ハンカチを受け取り、尾瀬は涙を拭く。彼女が持っている白色のハンカチはもう、一目で分かるほどに濡れていた。そうまで彼女は泣いたのだ。彼女と比較し、涙の出ない俺は薄情か。悲しんでいる。悲しんではいる。園田を悼む気持ちもある。ただ俺は、こうまで悲しめない。園田の死も、異常のひとつとして数えてしまっている。俺を苛むこの意味の分からない、ワケの分からない不条理の一要素として……ああ、不条理。まさに不ヂょう理だ。俺は、今の俺は自分で思っているよりもずっと、余裕がないのかもしれない。
「久之木くんや陽香ちゃん、それに三択くんや私、サクラ、あとは咲ちゃんかな……小学校や中学校からいっしょの人って、結構いるね」
「ああ、うん。だな。同じ街の中にあるし、そのまま高校まで進学するのが大半だったしな」
「久之木くん達は、それよりもずっと長い付き合いだったよね」
「陽香や、レモンのことか」
「うん。久之木くんたち三人は、ずっと仲が良かった」
「そんなにかな」
「……そんなに、だよ。ちょっと、羨ましかったもん」
「羨ましい……」
いったい、なにをそんなに。
「あ、それとね……サクラのお葬式は、家族葬、っていうのかな。そんなふうにあるんだって。だからお通夜も遠慮しなさいって、お母さんに言われちゃった」
「そっか……」
「そうなの。お葬式の日にちは、明日みたい」
園田桜子の葬儀は、十一月の二日目である明日に行われる。
親族だけの葬式となり、俺たちは参列できない。
「最後のお別れ、したかったけど……でもお墓参りにはゼッタイ行くんだ。サクラの好きなものをたくさんたくさん、持って行くの。お花だって、綺麗で、色鮮やかなものを選ぶ」
泣いて泣いて赤くなった瞳で、尾瀬は意を決したようにつぶやく。その言葉は俺に向けられてはおらず、彼女自身に向けて言っているように見えた。
「そ、そのときはね、くのっ……桜利、くんっ……」
おずおずと、上目で彼女の瞳が俺を見上げる。涙を流した痕跡の残る、泣き疲れた彼女の表情に、その悲しみの重さを実感する。
「い、いっしょにツイテきてくれないかなぁ?」
「ああ。分かった」
園田桜子。同級生。クラスメイト。
不幸な死を遂げることとなった彼女に、せめてもの慰めとなるように花を添える。同情であり、憐憫だ。自己満足であり、独りよがりだ。けれどそれらの事柄に、俺が彼女に花を添えないという理由になることはできない。死者には花を添えるものだ。ああいや、そんな一般論じゃないな……俺個人が、園田桜子の死を何某かの行動により悼みたいだけか。そうでないと気が済まないというだけの。
「ありがと……久之木くん。あ、このハンカチ、洗濯してから返すね」
「そのまま返してくれていいよ」
「えぇっ、いや、それじゃあダメだよ洗ってくるよっ。だって涙や、そのぅ、鼻水もついちゃったし……」
「俺気にしないぞ」
「私が気にするのっ」
わたわたと、尾瀬は俺のハンカチを握りしめる。羞恥の為か、その頬がわずかに赤い。彼女が気にしてしまうのなら仕方がない。
「そっか。なら、お願いする」
「りょーかい。えへへ」
ハンカチを大きめの胸に埋めるように握りしめ、尾瀬は微笑んだ。なぜだか気まずくなり、俺は彼女の胸元から目を逸らす。ちょうど、屋上の入り口の扉へと視線が向いた。
扉は開いていた。
誰かが覗き込んでいた。
黒い何かが俺たちを見ていた。
「っ……!?」
身体が硬直する。
後頭部が痛み出す。
「久之木くん……?」
尾瀬が、言う。固まる身体を、口をようやく動かし、「ああいや、なんでもない」と俺は返す。「ちょっと、先に戻るな」
「え、あ、うん。また教室でねぇ」
俺たちを見ていた何者かは身体を既に引っ込めている。
恐る恐る、屋上の扉へと近づく。近づききって、ヂヂ 一息にドアを開けた。「お……」
「あら。偶然ね、桜利くん」
「別にヤマシイことなんてしてないわよ。ちょっとラブコメの匂いを辿っていたらここにたどり着いただけなんだし。私もユーヒも」
そこには二人いた。
茶色っぽいサイドテールの真ん丸の瞳の少女と、真っ黒な長髪を胸元以上にまで伸ばした鋭い目つきの少女。陽香と、夕陽の二人がいた。
いったいどっちが、と一瞬、一瞬だけ、思ってしまった。答えは分かり切っているのに。




