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ある日の風景

「おお? なんかオウちゃん、目にクマができてねえ?」


 授業の合間の休み時間、頬杖をついてまだ眠気の残る頭をぼんやりさせていると、隣の席のモヒカンがそう言った。


「そうか?」

「そうぜ。割とはっきりクマができてる。寝不足なん?」


 寝不足……確かに、寝不足かもしれない。昨日は寝る前に、諏訪さんに借りた『モルスの初恋』を読んでいた。そのまま寝落ちして時計を見ていないから実際何時に寝たのかは分からないが、いつもより遅かったのは確かだ。そして気付けば朝だった。


「今ものすごく眠いのは確かだ」


 へー、とモヒカンは言うと、「俺ちと小便」そのまま席を立ち、教室を出て行った。

 休み時間の喧騒に包まれる教室内を、何の気なしに見渡す。転入生の諏訪さんは数人の女子生徒と楽しそうに会話している。一瞬目が合い、ウィンクされた。可愛らしい、人を勘違いさせることが板についた動作だった。

 彼女たちから視線を動かすと、離れたところにぽつんと席に着いて読書している女子がいた。耳にかかるくらいのショートで、理知的な瞳をして落ち着いている女子、ことわり芙月ふつきという名のクラスメイト。クラス内ではあまり目立たない彼女には、あるひとつの噂がある。それを流し始めたのは誰か知らないが、その噂はきっと彼女にとって良くはない噂だ。俺も、信じているわけじゃない。

 彼女はどうも、ある中年男性と関係を持っているらしい。なんとかリサーチとかいう何処かの事務所に入り浸り、そこで……という内容である。関係というのは、つまりはそういうことだ。

 ゲスい話題だ、と思う。とてもそうは見えないと考える人間が大半だろう。いかにも真面目で成績もよく、更には容姿まで整っているという模範的優等生な彼女に対する僻みなのだ、結局のところは。それ以外の理由は考えられない。


「……?」


 視線に気づいたのか、理さんがこちらを向く。なにも後ろめたさはないのに、思わず視線を逸らしてしまった。

 そこでチャイムが鳴り、束の間の休み時間は終わった。


    ◇


 放課後である。


「読んだ? ねえ読んだ? ねえねえねえ読み終わった? クノキくんっ」


 金髪美少女に絡まれた。

 帰宅部である俺が帰ろうと鞄を持ち上げた途端のことである。諏訪さんがととと、と駆けてきて俺の机にぴょんとお尻を乗せたのだ。軽やかであった。


「おまっ!? オウちゃんいつの間んにスホーさんと仲良くなってんのぞ!?」


 妙な日本語になりながらのモヒカンの言葉に、俺ではなく諏訪さんが「えひひー」と意味深な笑みで応える。「なんっ……!? その笑みはいったいなんだ……!?」モヒカンが混乱した。


「読んだ」

「面白かったでしょ? 面白かったでしょー?」

「まだ最後までは読んでないけどな」

「じゃあ途中まで読んだ感想聞かせて。どんな気持ちになった?」


 どんな気持ちになった、ときたか。


「これ、なんか知ってる。ってなったよ」

「ほうほう。そのなんかとはなんぞや?」

「夕陽ヶ丘市の中で起こった連続殺人を基にしている」

「そこに気づくとは……中々鋭いねっ」


 にっ、と諏訪さんは笑う。気付くも何も、けっこうそのままな気がする。


「夕陽ヶ丘市で発生した連続殺人の犯人は、だからその本の中に書いてあるの。読み進めていけば真実が分かるよ。分かりたいでしょ? 真実が。答えが」

「ああ。知りたくて仕方がないというのが、今の正直な気持ちだ」

「えひひひひひ」


 あのヘンな笑いを、諏訪さんは浮かべる。なにかを企んでいるようでいて、その実なにも企んでいない、けれどもなにか思惑がありそうな……身も蓋もないことを言えばちょっぴりアホっぽい笑い方である。


「経験しているの」

「なにが?」

「モルスの初恋の作者は、その夕陽ヶ丘市の連続殺人事件を経験している。水代永命という名の生徒が、この夕陽ヶ丘高校に在籍してたかもね。もしペンネームだったら分からないかもだけどっ」

「そうなのか……いや、そうだよな。経験していなければこうまで書けない」

「過去の資料を片っ端からあされば連続殺人の非当事者でも書けるかもよ? もしくは、神秘的なぱぅわぁで全てを知っている、とか」

「非当事者ってのはありえるかもな」

「神秘的なぱぅわぁの方は?」

「ないだろ」

「そんなばっさり。ひどいわねー。現実ってのは案外、狂ってるかもしれないのに。だから世の中は不条理極まりないんだわ。だわわ」


 まだ俺の机に尻をのっけたまま、歌うように諏訪さんはそう言った。


「ね、帰りましょ? みんなもう帰っちゃった。アンタを置き去りにして」

「あー? うわ、確かに」

「置き去りだなんて、ひどい人たちね」


 諏訪さんと会話しているうちに、クラスの中は空っぽになっていた。みんな各々の場所へ向かったようだ。


「置き去り。置き去りーっ。みんながアンタを置いてゆくー。それともアンタがみんなを置いて行ったのかしらー。えひひひっ」


 即興らしいヘンな歌を歌い、ヘンな笑いを浮かべていた。

 諏訪さんは今日、なぜだかご機嫌のようだ。なにか良いことでもあったのだろうか。もしくは良いことが起ころうとしているのだろうか。どちらであるかは、まあ、聞かなくていいか。俺には関係のないことだろうし。


「モルスの初恋、読み終わったと実感したら改めて感想聞かせてねっ☆」


 諏訪さんはにこやかに嬉しげに、そう俺に微笑みかけた。

 読み終わったと実感したら……か。なにか、引っかかる言い回しだな。俺の気のせいだろうか。普通は読み終わったらと言うんじゃないのか。


「実感したら、なのか?」


 だからそう、尋ねた。


「そう、俺は読み終わったぞー! とアンタが実感したら、で良いから」

「それ一回読み終わったら、ってことだよな」

「えひひひひひ」


 ヘンな笑みで煙に巻かれてしまった。

 まあいい、読み終わったらということだから、最後まで読んだらと解釈しておこう。どうせ今日、家に帰ってから一気に読み終わるつもりだし。


 そして今。

『モルスの初恋』を俺は読んでいる。

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