風邪をひいた少年と死んだ王子様の話
「やって来たのは私でしたーっ☆」
やって来たのは玲那だった。
「……は?」
は? となった。
布団の中、聞こえてきたノックの音に気怠い頭を動かし、上半身を起こし、「なに?」と返事をしたところ扉が開かれての玲那だった。金色の髪は相変わらずの金色で、二つの房となって胸の前に垂れている。片手にコートを持ち、白のタートルネックに暖色のスカート、黒いタイツ姿と、全体的にもふっとしている。
「いや、ここ俺の家……俺の部屋……」
「だいじょぶ。お母さんにはきちんと了承を得たから。でもさでもさ、心配したんだよ、もー。今日体調不良で学校休みでー、どーしたのよ? 知恵熱? 勉強しすぎちゃった的な?」
「熱が出て……身体がだるかったんだ。明日には出られる」
「ふーん? 本当に大丈夫?」
すたすたとこっちに近寄って来て、勉強机の椅子にぽふりと玲那が座る。
「大丈夫だ」
「ほんとのほんとに?」
「ほんとのほんとだよ」
「そっか。なら、よかった」
にへり、と玲那が笑う。病床の今もあってか、いやきっとその為だろうが、その笑顔にどきりとしてしまった。俺はもう、本当に彼女のことが好きになってしまっている。
「ん、顔赤くなった? 熱ぶり返しちゃったかな」
そう言う玲那から、俺は気恥ずかしくなって視線をそらした。
「どして顔をそらすのよ?」
「いや、なんでも」
「……? あ、もしかして照れちゃった?」
「そんなわけないだろ」
図星だった。
「んふふ。ま、存分に喜ぶがいいよ、ほらほら、彼女が来たんだぞー?」
椅子から立ち上がり、ベッドのところまでやってきて、玲那がそっと控えめに端に座った。どんどん近づいて来る。
「風邪、うつるぞ」
「うつしてもいいよ、って言ったらどうする?」
虚を衝かれ、思考が固まった。ただでさえ熱に浮かされてまともな働きをしていないってのに。玲那はにやにやと、からかっているのが一目で分かる表情だった。このやろう。
「なんでそんなに、距離が近いんだよ……誤解されまくるぞそんなんじゃ」
「そうかなー?」
「そうだよ。男ってのは、すぐ誤解するんだよ。この子って俺のこと好きなんじゃね? って感じで思い上がってしまう生き物なんだ」
「難儀だねぇ、そりゃ」
「まるで他人事だな」
「どーでもいいんだもの。好きでもない人が私を好きになろうとさ」
玲那は視線を窓の外に向けて言う。まるで価値のないものを見つめるような瞳で、淡白な言い方だった。だがすぐににこりと笑みに戻ると、
「そうそう。お見舞いの品は、お母さまに渡したからね。ありきたりの果物だけど、体調がもう少しよくなったら食べてよ」
「ありがとな」
「どーいたしましてーっと」
ぽんと、立ち上がる。
見舞うという目的を達成したのだろう、玲那は帰ろうとしているようだった。
「もう少し、なんだよ」
玲那の後ろ姿に、俺はそう言った。彼女に、もう少しここに留まってほしかったからだ。
「もう少しって、なにが?」
肩越しに振り返って、玲那は微笑む。質問の体をしているが、彼女はすでに答えを知っている。知っていてなお、聞いている。面白がっているのだ。
「『モルスの初恋』を読み終わるのが、だよ」
「ふうん。いいじゃんいいじゃん。じゃんじゃん」
玲那は興味を持ったのか、再び、椅子に腰を下ろした。よし、と思った。この場に彼女がいてくれる、それだけで俺は満足するのだ。
「いっぱい、読んだんだね」
机の上に置いてある、すっかりページがよれてしまった一冊の本を触り、玲那が言う。
「──ねえ、アンタは誰かに守られたことはある?」
それは唐突な質問だった。玲那の視線は、机の上の本に向いたままだった。
「いや、ない……な、たぶん」
答える。
「そっか。じゃあ、自分のせいで誰かが──ううん、大切な人が死ぬ羽目になったことは?」
玲那の視線は依然として本に──『モルスの初恋』に注がれている。
「それも、ない」
答える。玲那は俺を一瞥し、すぐに視線を本に戻した。無感情な一瞥だった。俺を見た一瞬の玲那の瞳には、人の持ち得る如何なる感情も宿っていなかった。俺には、そう見えた。
「……ある日、ある時」
玲那が言い始める。今まで以上にはきはきとした語調だった。
それは何かを朗読するみたいに、何かお芝居の台詞を言うみたいにはっきりとしていた。
「一人の男の子が、一人の女の子を守った。探検ごっこの途中に、その男の子と女の子は廃墟の中で殺人犯と出遭ってしまったから」
一人の男の子。一人の女の子。探検ごっこ。廃墟の中。殺人犯。
「男の子には勇気があったんだよ。女の子を逃がそうと考えて、そしてそれを実行できるだけの勇気がね……あったの」
勇気のある男の子。女の子を逃がそうするだけの勇気を持った少年。
「だから、そうした。女の子は無事に守られた。そのおかげで女の子は死ななかった」
女の子は死ななかった。なら、
「じゃあ、その男の子は……」
玲那はゆっくりと、首を振る。
少年は死んでしまった。殺人犯に殺されてしまった。
「ねえ、クノキくん」
俺を、俺の名字を呼びかける玲那の声に、心なしか力がこもっていた。
「この一連の流れの中に────女の子の罪はある?」
女の子の……罪?
質問の意味が、よく分からない。殺人犯の罪ならわかる。なのに女の子の罪だって? なんで? 女の子は襲われて、助けられただけだ。なのになぜ罪があることがあるんだ。
「ない、だろ……襲われただけなんだろ? 助けてもらっただけなんだろ? それならないに決まってる」
俺の答えに、玲那は……彼女は、
「えひひひひ」
わらった、笑った? いや、違う。これはもう、違う。
嗤ったのだ、今、彼女は。俺の答えを馬鹿げたものだと嗤ってのけた。
「ごめんごめん、変な事聞いちゃったね。忘れて忘れて。別に憶えていてもいいけど、忘れた方が良いと思うよ」
そう言うと、玲那は立ち上がった。
「早く元気になって学校来なよー? 待ってるからね、それじゃお大事にー☆」
今度はもう、引き留めるのは無理そうだった。