大切な人
校舎四階分だけ、空が近かった。
墜死を防ぐための鉄柵の向こう側に、夕陽ヶ丘市の街並みが見え、その奥には山、稜線に仕切られて青空の域となっている。晴天だった。
「はぁーぁっとぉ! 今日も良い天気だねっ」
ぐ、と伸びをし、玲那が笑いかけてくる。薄い金の髪は陽射しに輝いていて、細められた双眸は柔和で、同級生と比べても頭一つ、いや二つは飛び抜けているだろう綺麗さだった。そんな子が無邪気に笑みを向けてきている現状、実はとても恵まれているのではないかとも思ってしまう。まあ、ここでの出会いは全くの偶然だったが。
昼休み、眠気をこらえて俺は校舎棟屋上への階段を上った。扉が開いてなければそれでよかった。屋上以外で一人になれる場所へ行けたのならそれで良いと思っていた。そして屋上への扉は開いているわけがないとも考えていた。それでもまあ、なんとなくだ。
屋上へ出る扉のノブに手をかけたとき、くるりと抵抗なく回り、扉が開いた。そこには、
「や、偶然だねクノキくん」
待ち構えていたかのように、屋上の中央で、こちらを、扉の方を向いて玲那が佇んでいたのだった。少し勢いの強い十月の風が、玲那の二つ結びの金髪の房を揺らしていた。そんなことがあっての、今だ。
「まだ読み終わってないんだ。今週中には、というか明日にはいける」
玲那が何かを口にする前に、俺はそう言った。きっと玲那はそのように言ってくるのだろうと思ってだ。
「へー。いけるんだ?」
「おう」
「ふーん?」
ふーんときた。にまにまと薄笑いを浮かべる玲那の細められた瞳が俺を真っ向から見つめる。
「じゃ、そろそろだね」
そろそろ。その言葉が含む意味は、時が近いということだ。時とは……あれか。いや、まったく望んでいないというワケでもないんだけどさ……がっつくのも何か、アレだし、みっともない感じがするし……
「私、アンタにどう見える?」
言い訳がましい思考を巡らせていると、玲那が両の手の指先を自らの鳩尾にそっと触れさせ、俺に問いかけてきた。俺に彼女がどう見えるか。見たままを答えよう。
「……明るい、金色の髪の女の子だ」
「美人、っていう言葉が抜けてるかなぁ」
そう言うと、玲那はころころと笑った。
「あと、外国の人の血が混じっている人」
「ハーフってことだねー。ま、実際にお母さんフランス人だしぃ」
「……日本語うまいよな」
「私ー? 当然でしょ。日本生まれの日本育ちなんだよ」
心外だ、と少し怒ったみたいに玲那は言った。
「お父さんとお母さんはだいたい日本語で会話してるし、お母さんも日本語うまいし……たぶん、そこらの純粋な百パーセント日本人の人たちより、私日本語上手いよ」
「確かにな……あ、ってことはさ、ミドルネームとかあるのか? 諏訪玲那、とは名乗ってるけど実際の本名はまた違ってたり」
「お、鋭いねークノキくん。諏訪玲那はまあ、そっちの方が呼び易いし分かり易いからね。いかにも日本人馴染みのお名前だし」
「本名、どんな名前なんだ」
「ん、知りたぁい?」
「うん」
「おっしえなーいっ☆」
きゃはは、と玲那が悪戯っぽく笑った。教えてもらえなかった。自然に回避されたようにも思う。聞き返したところで、彼女はきっと教えてくれないだろうという諦観めいた直感もあった。
「あはは……なんだか、機嫌が良いな」
「ん、そう見える?」
「おう。見える」
「いつもどーりなんだけどなー」
俺に向けた視線を、玲那は空へと向けた。青空だ。降って来る陽ざしが眩しかったのか、手庇をつくっている。どのような動作であろうと、彼女の存在はそれらを画として映らせる。
「なーに? そんなに私を見ちゃって。金色の髪ってそんなに珍しい?」
俺は黙って、浮かんだ笑みを取り消さずに首を横に振った。玲那は魅力的だ。
そんな彼女と遠からず肉体的に結ばれる自らがいることが、未だに信じられなかった。この想いが性欲から来ているのか、それははっきりと否定できない。
「さっきの、どう見えるかって問いかけさ、もう一回答えてもいいか」
「うん。いいよ」
さしたる関心もなさげに、玲那が言う。
「大切な人だ」
玲那は最初、俺の言葉の意味が分かっていないようだった。いつもの真ん丸の瞳、緑がかった宝石みたいな眼を瞬かせていた。
「へ、へー。大切な人か……」
玲那が浮かべたのは困ったような笑みだった。
「ねえ、それって私のこと? アンタから私へ向けられた言葉?」
「ああ。そうだ……好きってことだよ」
頷く。もう分かっている。俺は玲那のことが好きなのだ。出会ってひと月あるかないかだというのに、
「うん……嬉しいね、そういうのは。一応、仮ではあるけど彼と彼女の関係で、読み終わったのならえっちなことだってしようと思ってたけど、まさか『好き』ってはっきり言葉に出されるとなぁ……やっぱり嬉しいや」
えへへ、と玲那は頬を人差し指でなぞりつつはにかんだ。その仕草、表情だけで、俺は自分の言葉が決して無意味なものではなかったのだと理解できた。素直に嬉しかった。
「ま、まー、その返事についてはうん、オッケー、ということでいいよ。ううん、こう言った方が良いのかな」
そして玲那は、俺を見、えへへと照れたように笑い、くるりと後ろを振り向いてしまい、
「Je t'aime à la folie, mon amour──」
そんなことを言……え、なに……なんて? じゅ、ジュテームアラなんとか、も、もなむーる……? 分からない。だがジュテーム、ジュテームは聞いたことあるぞ……アレだ、フランス語だ。たぶん。そうじゃなかったらヨーロッパのどこかの国の何かの言語に違いない。
突然襲い掛かってきた異国語の意味合いをどうにか読み取ろうとしていると、玲那が肩越しに振り返り、にこりと笑んだ。
「……分かった?」
「……フランス語だ」
「当たりー」
「それにジュテームなら分かった。それ以外は……ちっとも分からない」
「おやおや、勉強不足ってやつー?」
楽しそうに玲那が言う。彼女の身体は再びこちらを向いている。
「ダメじゃないの、クノキくんったら。フランス人の血が流れている彼女を持つんならさー、フランス語くらいぺらぺらにならないとーっ」
「んなっ。そ、そういう玲那はフランス語喋れるのかよっ」
「ちょびっとだけ、なんだけどね。日本語の方が得意だし、英語の方がずっと勉強時間が長い──けどアンタよりは喋れる」
ふふん、と挑戦的な瞳だった。
「……俺、もし大学に行って、第二外国語とかがあったらフランス語とるわ」
「へー。頑張り屋さんだね」
「ま、まあ、お前と喋ってみたくもあるし……」
口にして、すごく恥ずかしくなってきた。玲那の眼を直視できずに逸らしていると、「えひひ」と彼女のあのいつものヘンな笑みが聞こえてきて、
「J'ai hâte de te voir, mon prince」
じぇあぁっとぅどぅぼあぁんぷらんす──よし、今度は聞き取れた……のかは自信がない。その上、意味はさっぱり分からない。聞くしかないか。
「今の言葉ってどういう意味なんだ」
「んー? 分かんない? 分かんないかー。勉学というものが足りないねークノキくんはぁ」
からかわれた。ちくしょう。
「いつか分かるようになってみせるからな」
決意を込めてそう言うと、「うん。待ってるから」と玲那は微笑んだ。