夕陽ヶ丘シネマズ
「ねえ。たまには映画を観たいわ」
来客用のソファーに座り、何やらプリントへ記入していた夕陽がふと顔を上げ、出し抜けにそのようなことを言った。今は事務所内で、稲達と夕陽の二人きりだった。芙月は来ていない。今日は珍しい、姪の来ない日だった。
「舞ちゃんと幹人くん、芙月ちゃんも誘ってみない? たまにはいいんじゃないかしら。兄夫婦と妹家族とで、仲良く映画を観るのも」
「そうだな……」
「ね、ね。暇でしょ、どうせ」
妻にまでそう言われ、稲達は「まあな」と苦笑する。実際暇だった。取り掛かっていたとある浮気調査に関しても、浮気相手とのツーショットと報告書を依頼者に提出し、そこで終了した。受け取ったときの依頼人──まだ若い女性だった──のあの目のつり上がり様に、稲達は他人事ながらその後に起こりえるだろう口論を想像し、すぐに頭から消し去った。依頼が終われば、自分が関わるのはそれまでである。それ以降は当人たちの問題だ。要求されたから事実を調査し、渡し、金銭を受け取った。それだけのことだ。
「何か観たいものでもあるのか」
「特にないかな」
それじゃあどうして、と稲達が思うのを分かっていたのだろう、夕陽はくすりと微かに笑う音と共に「だって最近あなたと出かけてないもの」と拗ねたような、怒っているような様子の声を発した。
「……行こうか」
「やった。なら私、舞ちゃん達に電話してみるから」
嬉しそうに歩いて行く妻の後姿を見、稲達は自らの選択の正しさを実感していた。
◇
老若男女が行き交い、ごった返しているフロア内を見て多少辟易したものの、楽しそうに会話している姪と妻と妹の姿を見て、すぐにどうでもよくなった。
「何を観たい?」
「私は……特に、ありません」
「あら、遠慮してはいけないわ、芙月ちゃん。ここでは私は学校の先生じゃなくて、あなたのお母さんのお兄さんの妻だと思って。私、これを観たいというのを決めずに来てしまったし」
「な、なら、お母さんは……?」
「私もないかな。芙月、あなたが決めなさい。どうせあなたのお父さんも伯父さんもないでしょうから」
「えー……」
「えーじゃない。あるでしょ。知ってるのよ、映画の雑誌を見てるの。ごめんなさいね、夕陽義姉さん。家の外だと借りてきた猫みたいになりますから、この子ってば」
「ふふふ。良いじゃない。好きに決めちゃって」
夕陽と舞に挟まれ、芙月がたじろいでいる。稲達は助け船を出そうと思ったが、出したところで沈没しそうだったため止めた。大人の中でただ一人だけ子どもというのもつらいかもしれないが、だからこそ遠慮は不要なのだ。何も躊躇する必要はない。何かを抑える必要などない。
「なら……これ、観たい」
「あら、ミステリー。良いじゃない、私もあの人も好きよ」
「なら、それにしましょ。券売機はあっちだから、チケット買いに行くわよ芙月、五人分」
夕陽達が三人、連れ立って自動券売機の方へ向かう後ろ姿を、稲達は見守っていた。妹もすっかり主婦だなぁ、と稲達は思う。昔からしっかりしていたものだけども。
「義兄さん」
すると、隣にいた妹の夫──義弟である理幹人が、そう口を開いた。背丈は稲達よりも少し小さいくらいで、若々しく清潔な男だった。
「いつも、すみません」
「はははっ。どうしたんだ、改まって」
「娘──芙月です。すっかり事務所に入り浸ってしまって、邪魔になってはいないでしょうか」
「そのことか。心配いらないよ、何も気にすることはない。だが……」
「だが……」
言葉をそのまま繰り返し言葉を待つ幹人へ、稲達は困ったように苦笑し、言った。
「幹人くんは、芙月ちゃんが探偵を目指したい、などと言ったらどうする?」
それは稲達の懸念だった。
「もちろん、止めますよ。義兄さんを前に言うのも気が引けますが、探偵というのはどうも、不安定だと思うので……そりゃあ、義兄さんのように自分で仕事を処理できるようになれば安定するのでしょうが、それまでが大変だと思うんです」
「私も同感だよ。もしそれを言ったときはどうか、止めてほしい」
「あははっ。舞と二人で、どうにか説得してみせますよ。子どもが見てしまう一時的で無謀な夢を、本人が覚めようとしないのなら覚まさせるのが親でしょう」
笑う幹人に、稲達もまた口元を緩ませた。探偵など、目指さずとも良いのだ。そうならざるを得なかったからそうなった、というわけでもない。選べる道は多々ある、一本だけしか目の前にないわけでもなしに。
「ところで……姉に花を供えてくれたのは、義兄さんですか」
「……そうだね、私だよ」
「すみません、ありがとうございます。姉も──桜子もきっと喜んでいます」
理幹人の姉である桜子──園田、桜子。昔々に殺されてしまった、一人の女子高生。稲達は先日に彼女の墓を訪れ──いいや、彼女達の墓を訪れ、それぞれに花を供えた。もう何度供えただろう、二十は越えたか。年が経ちその日が訪れる度毎に、遠くに居ようとこの街に戻って来て花を供え続けている。ただ、ある場所については、稲達が入ってしまっては不審者となってしまうため妻の夕陽に頼んでいる形となっていた。
稲達孤道の義弟、芙月の父、舞の夫である理幹人は──園田桜子の実弟だった。
桜子のただ一人の弟の園田幹人は、ただ一人の姉を殺された後、父と母の下から去った。元々、桜子と幹人の両親は二人の子供を放任──その理由は仕事であったり、人付き合いと呼ばれ、それぞれがそれぞれ違う相手に向けた後ろ向きの情愛だった──しがちだった彼らは、桜子が殺されたのち、幹人を完全に見捨てた。日々、父親は母と違う相手を欲して家に帰らなくなり、母親は父と違う相手を愛し余所の家に泊まることが増えた。彼らの守るべきものの範疇から元々外れかけていた桜子と幹人は、桜子が他殺体となった後に、完全に外されたのだ。家には幹人一人がいる時間が増え、ある日、その状況を知り、見かねて憐れんだ親戚により引き取られた。それが理家──母の旧姓であり、幹人にとっては祖父母に当たる一家だった。母の妹は、幹人にとっての叔母は憤慨し、一切家に寄りつこうとしない姉を散々に罵倒していたようだった。
『初めまして。舞さんとお付き合いさせて頂いている理幹人、と申します』
実妹である舞が理幹人を連れてきたとき、稲達はそこに誰かの面影を覚えた。
『実は……僕には姉が、いました。園田桜子と言います。ご存知でしょうか』
そしていつか酒を飲み交わした時間、幹人の昔の姓を知った時、稲達はなぜだか、逃げられはしないのだ、という諦観を抱いた。そして好印象の青年は、そのまま好青年だという評価へ移り、それは間違いではないのだと確信するにまで至った。稲達と幹人の関係は、義兄と義弟として良好だった。
「ほら、あなたっ。兄さんも」
遠く、入場口のところで舞達が手招きしている。
稲達と幹人は揃ってそこへ歩き出した。
当の映画は、昔見たような、と修飾されるような内容だった。