夕陽ヶ丘高等学校
一年C組には、花瓶が置かれている机が一つ存在する。
そこに座っていた人間がもうこの世にはいないと、日々周囲に示している。時が経てば撤去されるのだろうが、まだそこまで時間は経っていない。死んで──殺されて一か月を超えようかという、その辺りだった。
芙月は一人、ぼんやりとその机を見つめていた。
放課の礼が済み、その後だった。部活動などは現在も全て停止中である。大会やコンテストの近いところからは抗議の声が挙がっているようだが、人殺しが今も捕まっていない以上、学校側としては仕方がなく、そして正当な判断だった。
やることのない生徒達は、西日の差し込む教室内でしばらく会話した後、早々に帰宅なり、遊びに行くなりして消えていった。芙月は久之木先生に用事があったため美術準備室にいる彼女の下を訪問し、その後、なんとなく教室に戻ってきたところだった。別に忘れ物をしたわけでもない、家に早々に帰るつもりも理由もなかったため、というのが理由としては一番近い。何気なくであるため、その理由の確たるところは芙月自身もよく分かっていなかった。
教室の中には既に人影はなく、空の机と椅子が夕暮れの朱に染まりつつ、規則正しく並んでいた。その中で、教室の後ろのところに、花瓶が置かれている机が一つあった。フラスコを細長くしたような透明の花瓶には透き通った水が満たされ、一本の白百合が差されている。誰が用意したのか、芙月は知らない。机の上に、いつの間にか置かれていた。
「可哀そうだよね、その子」
「っ……!?」
急に背後から声をかけられ、芙月はびくりと身体を震わせると丸くした目のままで素早く後ろを振り向いた。「あははっ、びっくりしちゃった? ごめんねー」目を細めて笑う金髪の少女──玲那がいた。おさげにされた金髪が二房、胸の前に垂れている。胸元につけられた『諏訪』という文字が目に入った。半分ほど日本離れしている彼女の、あまりに日本めいた名字だ。
「諏訪さん? どうして、ここに」
「その質問、私もそっくりそのまま返せるかなー」
ふふふ、と玲那が笑う。彼女はよく笑う。教室内でも明るく元気で、それに見た目も華やかで屈託を感じさせない振舞いに男女ともに人気の女子生徒。告白だってたくさんされているんじゃないか、と芙月は踏んでいた。されているからどうだ、というわけでもなかったが。
「ああ、うん。そうだね、私は何となくだけど──諏訪さんもなんとなく?」
「そーそー。なんとなくだよ」
冷静でいるように、と芙月は心掛けた。別にやましいことがあって今この時間にこの教室にいるわけでもないというのに、心臓が何故だか早鐘を打っているのだ。
まるで、それは、そう──まるで、今このタイミングで彼女と出会うことが、出遭ってしまったことが、なぜだか途轍もなく不吉でこの上なく不幸であるかのように。
「本当、可哀そう」
玲那の言葉には実感がこもっていた。心から彼女はその死んだ男子生徒を憐れんでいるのだ、と芙月には分かった。
「うん……」
芙月も頷き、玲那の言葉に共感する。その男子生徒と特に仲の良かった、彼の左隣に座る茂皮寛治──その名前から、モヒだったりモヒカンだったりと呼ばれている──が泣いていたのが記憶に新しい。あまり会話したことのなかった芙月ですら、涙を落としそうになった。
「はーあ」
溜め息のように息を吐き、玲那は花瓶の置かれた机のすぐ右隣、ずっと空の机の上に座った。なぜ誰も座らない机がずっとあるのか、疑問を口に出す者はいない。一年C組の人間はみんな、その机の存在に慣れてしまっていた。
「昨日まで生きていた人が今日を生きていない。今日もいるはずの人がいない。ふじょーりだよねぇ、こーいうのって」
「諏訪さんは……仲、良かったよね?」
芙月は何度か、玲那とその男子生徒がいっしょにいる光景を、仲良さげに話している光景を見たことがあった。
「ん、良かったよ」
玲那は淡々とそう返すのみだった。彼女はすぐに、その話題に一切の興味を失ったとばかりに、
「探偵さんは元気?」
と芙月に笑いかける。感情の底が見えない、薄く貼りついたような笑みだった。芙月は、再び不吉さを強く覚えた。
「げ、元気だと、思うよ」
「そっか。それは良かった。あの探偵さんのこと、芙月ちゃんに聞けばすぐに分かりそうだし。仲良さげだったしー」
そして訪れる、少しの間。
玲那は何も言わず窓の外の夕陽を見、芙月は何も言えずに花瓶の百合を見つめる。
「芙月ちゃん、あの探偵さんのこと『所長』としか呼ばないよね」
おもむろに玲那が訊ねた。
「……その方が呼びやすいからだよ」
「そっか。私てっきり、探偵さんの名前が本当はそうじゃないから、って思ってた。だって、好きな人を呼ぶときは本当の名前で呼びたいことってあるじゃん? ないかな? なさそう? なしよりのなし?」
稲達孤道は、いつから稲達孤道なのだろう。
芙月は、時折そのような疑問を抱くことがある。訊ねてみたことはあったが、稲達は姪をからかうような口調で真実を濁した。
「偽名の方がなんだか探偵っぽくもあるしぃ」
玲那が笑う。彼女は本当によく笑う。日々が常に楽しく明るいものだと信じ切っている者のような笑み、だと芙月は思っていた。今は少し違う。
「探偵さんなら、彼を殺した犯人を突き止めてくれるのかなぁ」
横目で花瓶を見遣り、興味なさそうに視線をすぐに外すと、玲那は目を細めた。彼女の笑顔には昏さが見える。嬉しい楽しいという理由だけが、彼女の笑う理由ではない。芙月はそう思い始めた。
「無理じゃないかな。所長、そういう事件に携わったことがない、って言ってたし」
「……本当にぃ?」
聞かれ、芙月は言葉に詰まった。
「嘘は誰にだってつけるんだよ、芙月ちゃん」
玲那が笑う。芙月は背中に冷えるものを感じた。彼女の笑みは、底冷えしている。相変わらず机に座る玲那の、口角がより一層吊り上がった。
「口から出る嘘もあるし、存在そのものが嘘だっていうこともあるかもじゃん?」
その言葉に込められているのは──悪意、だろうか。芙月の心臓がドクンと、ひと際強く鳴った。
「例えばさ、例えばの話だよ──現実の気が狂っちゃってさ、お父さんだけがいて、お母さんが嘘の存在だったとして」
芙月は、耳を塞ぎたくなった。
「そしたら、その子供はさ、実在するお父さんと、虚構のお母さんを半分ずつもらったことになるのかな。半分が本物で、半分が嘘なんだ。そしたらね、そしたら……」
玲那は続ける。愉快そうに、言葉を繋ぐ。
「もしも現実が元に戻ったとき、お母さんが消えて、お父さんだけが残るでしょ。そしたら、お父さんとお母さんを半分ずつもらったその子供は消えちゃうのかな?」
芙月は玲那の眼から、視線を外した。見ていられなかった。なぜ知っているのか、と考えていた。どうして分かるのか、怯えていた。玲那の言葉が誰を指しているのか、芙月は理解できていた。そしてそれを、発している当の玲那自身も当然分かっているだろうことも。
「それとも──半分だけ残るのかなぁ?」
「わ、私、帰るから……!」
机の上に座る玲那。その顔が今どのような表情を浮かべているのか、芙月は見られなかった。怖くて、見られなかった。
「ばいばーい。探偵さんによろしくねー☆」
教室を出ようとする背後から、玲那のそんな言葉が追いかけ、
「今度また、私たちが遊びに行くって言っててくれると嬉しいな。えひひっ」
愉しそうな笑い声が、芙月の耳に残った。