夕陽ヶ丘市
「私、そろそろお暇しますね」
芙月が立ち上がり、鞄を手にいつものようにパソコンの前に座っているヒゲ姿の稲達と、コーヒーカップを片手にソファーに座っているスーツ姿の夕陽へ言う。
窓の外は真っ暗だった。電灯をつけた室内からは、ところどころに白い光点のある真っ暗な壁にしか見えなかった。時刻は午後七時を多少回った辺り、冬の太陽は既に地球の裏側へ旅立ってしまった。
「待ちなさい。もう事務所も閉める。今日は私も車で来ているから、いっしょに送ろう」
仕事の用事で車を使用しなければならなかった為、本日の稲達は車通勤だった。事務所のあるビルを出てすぐの月極駐車場に駐車している。
「あーいや、でも、ご迷惑になるのでは……」
「いいのよ、芙月ちゃん。女の子が夜道を一人で帰るのは色々と危険なんだから」
遠慮する芙月へ、夕陽が微笑んだ。稲達も「子どもは遠慮せず、存分に頼りなさい」と言う。心配から出てきた言葉だったのだが、「子ども扱いしないでください」と芙月からは噛み付かれた。稲達は苦笑し、夕陽は「あらあら」と微笑んでいた。
「舞や幹人くんも心配する。預かっている身としては、君が一人で帰るというのは看過できない」
そう言うと、反論は聞かないと稲達は立ちあがった。パソコンを鞄にしまうと、持ち上げ、早々に入り口の方へ歩き出す。
「すみません。それじゃあ、お願いします」
申し訳ないとばかりの言い方に、稲達は「ちょうど私も帰宅したかったからね。良い理由になった」と微笑んだ。
「わ、私を都合の良い理由として使ったんですかっ」
「ははは。すまないね、大人というのは都合の良さそうな理由が目の前にあったら抜け目なく使う人種なのだよ」
笑う稲達へ、夕陽が「ひどい大人よね」と冷たい言葉を笑みを携えて放り投げた。
「うう、探偵というのは狡さも必要みたいです。見習わせていただきますからっ」
少しだけ怒っている様子の芙月からのそんな言葉に、稲達は「また一つ大人になれたじゃないか」と朗らかに返す。
稲達も夕陽も、芙月が年齢に似つかわしくない程の遠慮しいなのを理解している。
◇
車内にて。
運転席には稲達、後部座席には芙月と夕陽が座っている。助手席には誰も座っていない。
通りをずっと走り、交差点を曲がり、またしばらく走行し、住宅街へ入る交差点を曲がった。路上を歩く人々は、その大半が三、四人連れ立っていたり、会社帰りらしい男性一人のみだった。
「今度、高校生向けの絵画コンクールがあるのよ。夕陽ヶ丘市が開催する風景画。まあ街並みね、そのコンクール。芙月ちゃん、出してみる?」
「えぇ……わ、私、絵とか得意ではありませんから……」
「あら。この前の静物画、とても良く描けていたのに。芙月ちゃんは写実画に向いていると思うのよねぇ」
「そうなのでしょうか」
「うん。物事を物事のままに、主観を排して客観的に……やっぱり向いているわ」
「……考えてみます」
「ふふ、気が向いたら言ってね」
夕陽と芙月の会話を、稲達はハンドルを握り前方を見据えたまま聞いている。それは生徒と教師の会話であり、おばさんと姪っ子の会話でもあった。
「もうすぐ、着きそうだね」
言い、少し走行してすぐに目的地付近へ近づいた。理、という表札の掲げられた家の前だった。窓から電気が漏れている。母親か、もう帰っているならば父親がいるのだろう、と稲達は考える。車を左側に寄せ、エンジンをかけたまま停車させ、ハザードランプのボタンを押した。「ありがとうございました」と芙月が車から降りた。
するとそのタイミングで、家の中から一人の男性が出てきた。理幹人、芙月の父親であり、稲達の義弟にあたる。助手席側の窓を下ろすと、幹人が「こんばんは」と挨拶し、芙月の頭にぽんと手を置いた。芙月はむ、とウザそうな表情になった。
「いつもすみません、娘の面倒を見てもらってばかりで……義兄さん、義姉さんも」
頭を下げる義弟へ、稲達は「いやいや、良いんだよ。事務所内も明るくなる。私と妻だけではどうも、雰囲気が暗くなってしまうからね。若さがないんだろうな」と笑った。夕陽も「そうね」と車内で笑い、稲達の脇腹をこっそりと抓った。若さがない、という言葉に対する不満の表現だった。その言葉が事実だとしても、不満に思うものは不満に思ったのである。
「それなら、また」
会話もそこそこに、稲達と夕陽は幹人と芙月の親子に軽く頭を下げ、車を発進させた。
「ねえ」
しばらく進み赤信号で停車したとき。夕陽が稲達の座る運転席に両手を置き、体重を軽くかけてきた。子どもみたいな所作を稲達は気にする様子もなく「なんだ」と答える。
「水代永命という方が亡くなっていることは知ってる?」
「知っているよ。新聞でも、ニュースでも見た」
「なんで死んだのかは?」
「心不全だろう」
「水代永命の著書、読んだことある?」
「その著書が『モルスの初恋』を指しているのなら、無いと答えよう」
「ふうん。本当に?」
「本当だよ。嘘をついてどうする」
「私、少しだけ読んでみたわ」
「どうだった?」
「あ。青になったわよ」
夕陽に言われ、稲達はブレーキから足を離し、アクセルペダルを踏み込んだ。エンジン音を響かせ、緩やかに車が進み始めた。
「物語は全部で三章あったの。『出会い』と『殺人連鎖』と『未知なる扉、陽射しの香り』の三つ」
「へえ……」
「夕陽ヶ丘市で発生した悲劇的な連続猟奇殺人事件をモチーフにしている、というのは知ってる?」
「そう、新聞には書いてあったな」
「その物語の主人公がね、条理桜花くんって言うの」
「条理……謳歌、か。常識的な日々を賛美しろ、とのことだろうかな」
「私、何処かで見たような気がするのよね、その子。誰かさんの若い頃にそっくりな気がするの。どう思う、ダーリン?」
つんつん、と夕陽が稲達の肩をつつく。少女のような言動を、夕陽は稲達と二人きりのときは一切隠さない。稲達は前方を見遣りつつ困ったように笑った。二人きりの時の夕陽は素直になり過ぎる。
「いったい、誰だろうな」
とぼけたように稲達が笑う。
「……私相手に事実をぼかす必要ないでしょ」
拗ねたように夕陽が吐き捨て、運転中の稲達の耳元へ口を近づけ、
「私たちは共犯者なんだから」
と、そう囁いた。
「はははっ、そうだな──私は、人殺しだよ」
視線は前方を見据えたまま、稲達は鷹揚に笑い、言い捨てた。
「私たち、でしょ」
ふふふ、と夕陽が朱い口紅を引いた唇を愉しげに吊り上げた。
「しかし」
稲達が言い淀む。苦々しく、眉をひそめる。
「私は、あなたと共に罪を背負うと決めたんだから」
夕陽の言葉に、稲達の表情は一層、苦しげなものとなった。
稲達は運命に回り込まれ、夕陽はあの日から戻り切れていない。
「なあ……」
「なあに?」
「俺は、まだ生きているだろうか」
「……生きているわ。私の眼から見たあなたは、生きている」
条理を欺瞞した日々は永続しないのだと、稲達はとうに理解している。自らの伴侶が決してそれを望んでいないこともまた、とっくの昔から知っている。
ならばどうすればいいのか──それについての答えを出せずに、彼は今に至る。