映画を観たカップル
エンドロールが流れ終わると、館内が明るくなった。
静かに映画を観ていた人々に、ざわざわと喧騒が戻り始めた。
手元にはめ込んでいたドリンクカップを持ち、ストローに口を付ける。爽やかな甘みが口内に広がった。中身はコーラだ。
「なんか怖かったねー」
「そうだねー」
後ろの席から、そんな会話が聞こえてきた。
映画の内容は、サスペンスミステリーだ。玲那が選んでくれたものだが、……いや、少し意外に思ったのも事実だ。漠然とした印象だが、彼女の好みとしては恋愛とかそういうのを選びそうだと思っていたから。館内に入った時、「これ見たいんだ」と玲那が指さしたパネルを見て意外に思ったものである。自動券売機の列に並び、「楽しみー」とにこやかに笑う彼女を見て、すぐにどうでもよくなったが。
旬は過ぎてしまっているのか、周囲に客は少なかった。ちらと見た限りでは十人そこらが疎らに点在していただけだ。
観終わった感想としては、俺としてはあまり良い終わり方とは言えなかった。
探偵がいて、それに対応するように犯人がいた。犯人は最後の最後まで姿を隠しており、物語の影で不気味な痕跡だけを残し続けていた。犯人はある男の妻になるはずだった女を殺し、その殺された女が担うはずだった役割を奪った。動機としてはありきたりな、男女の仲のもつれ。それを肉付けして大袈裟にした、ひとつの血生臭い恋愛劇とも観終わった今としては思える。
そしてラスト付近のシーンで、ついに犯人の姿が出てくる。
探偵役の誰か(役者の名前は知らない)が、全ての犯人となった赤い服の女性を問い詰め、何もかもを認めた赤い服の女性(綺麗な役者さんだった。やはり名前は知らない)が何処からか取り出した刃物で自分の首を斬り、青空に鮮血を飛ばしたカットがいやに印象に残ってしまった。あっけなく、犯人は死んでしまったのだ。探偵は苦々しげな表情をし、事件の後処理と後日談の様子を少しく映して、映画は終わった。
事件は解決した。だが、犯人は救われなかった。その点が俺にとってあまり良い終わり方とは思えないその理由なのだろうな。
そんなことを、真っ暗なスクリーンを前に考えていると、
「あー……。あーーー……」
唸り声が真横から聞こえた。
見ると、顎を少し上にあげ、ハンカチで目を覆って呻いている彼女の姿があった。玲那だ。泣いてる。泣くような場面あったっけ。驚いて見ていると、視線に気づいたのか玲那が横目で俺の方を見、
「あんまりこっち見ないでほしいかな」
と嫌そうに言った。「ちょっと感動しちゃっただけだから」
「感動するようなところあったか」
「え、信じらんない。あったでしょ」
まるで俺に人の心がないみたいな言われようだ。
「ま、仕方ないかも。アンタには一生分からないだろうし」
玲那の言葉に少しム、となったものの、やはり分からないものは分からず、首を傾げた。玲那はそんな俺の様子を横目でじぃと見た後、はあ、と息を吐き、
「……可哀そうだった」
そう言った。
「ああ……犯人な」
彼女は犯人を憐れんでいる。同情だろうか。はっきりと分からないが、何かの感情を向けていることは確かだ。共感……は、しないだろうなあ。あの犯人の女の人は人殺しだし。
「今観た映画、ずっと前にあったドラマのリメイクだって、知ってる?」
玲那が言う。ハンカチを手に握りしめてはいるが、その目に涙はもうなかった。
「へー、知らなかった」
「二十年とかそのぐらい前だったと思う。ま、どうでもいい話だね。その頃、私たちは存在すらしていなかったんだし」
そこで会話は途切れ、「そろそろ出ないとね」と玲那は席から立ち上がった。それに続いて俺も立ち上がり、扉から外へ出て、飲みかけのコーラは従業員の人に回収してもらった。
その後は、「特に私用はないけど、アンタは?」と玲那に言われ、俺は首を横に振った。「なら、帰りますか」と俺たちは帰る運びとなった。本当に映画を観ただけだった。
「サスペンスミステリーとか、観るんだな」
バスを待つ時間、思っていたことを玲那へ言うと、彼女は「そこは意外でもなんでもないんじゃない? ほら私、アンタに貸してる『モルスの初恋』を読むような人間なんだし」と笑う。まあ、そうだけどさ。
「いやもっと、恋愛映画とかそういうのを見るのかな、って思ってたんだ」
「あははっ。なに? 二人で観る映画だから、もっとロマンのあるものが良かった?」
悪戯めいた光を目に帯びて、彼女はそんなことを言う。……割と図星じゃある。沈黙を肯定と受け取ったのか、玲那は口をむふふと微笑んだ。
「クノキくんったらかわいいー」
「……かわいいって言われて喜ぶ男はいないだろうよ」
「あははっ、そだね。ごめんごめん。そんな拗ねないでよ」
ぽんぽんと肩を優しく叩かれ、玲那は相変わらず笑っておさげ髪を揺らした。
「私だってロマンを全く求めてないわけじゃないんだよ。笑ってほしい話なんだけどさ、私、未だに王子様がやってくるのを夢見る瞬間があるんだ」
「王子様を……?」
王子様、と聞いて、俺はつい最近の玲那の言葉を思い出した。以前に玲那が話した、死んでしまった王子様の話だ。彼女はその訪れを待っている。死人が来るのを待っている。
「あ、今笑ったでしょ! ひどくない!?」
冗談だと明らかに分かる明るさで、玲那が俺を非難する。
「いや笑ってない。まったく笑ってないって」
「ひどーい。いいじゃん、王子様を待ったってさー。いつかはきっとやって来てくれるって信じていてもさー」
明朗快活な笑みだった。そこに後ろ暗いものは何も見られなかった。
「ずっと気になってたんだけどさ。王子様と本命って、イコールになるのか」
思い切ってそんなことを訊ねてみる。今の彼女ならきっと答えてくれそうだったからだ。なんだか機嫌が良かったし。
「……どうだろね」
でも、俺の予想に反し、玲那は歯切れ悪く、苦笑を浮かべてそんな曖昧な返事。
「クノキくんはさ」
俺が言葉を言うよりも早く、玲那が口を開いた。
「全く知らない、接点がない……憶えてもいない人間にいきなり好きだと言われたら、どう思う? ずっと、ずっと長い間好きでした、どんなことがあっても好きだったんですと言われたら、どう感じる?」
「ど、どうって……」
「気持ち悪いと思う? 誰だこいつはってなる? ずっとだなんて重っ、てなる? それとも、据え膳きた! って食いつく?」
遠くを見つめ、玲那が言う。表情は薄笑いだった。自嘲のような、苦渋のような、そんな顔だった。
「誰だこの人は、とはなるだろうな」
「あはは。やっぱりー?」
乾いた笑い方だ、と思った。
「さっきの質問の答えだけど、イコールで良いよ。王子様と本命はイコールで繋げられる」
「じゃ、じゃあ……」
王子様は、本命は、
「ふふ、この前の私の話、憶えててくれたんだ? 忘れて良いって言ったのにな」
目を細めると、玲那は、
「そ。死んじゃってる。生きていないんだよ、誰が何と言おうと、どう願おうと、王子様はもう生きてない」
「ならさ……」
言葉を続けようとして、自分がひどいことを言おうとしていると自覚した。死んだ王子様がやってくるわけないだろ、とそんな当たり前のことを、俺は彼女に伝えようとし、
「でもね、王子様はやって来るんだよ」
言葉をかぶせられた。
玲那のぱっちりとした緑がかった瞳が俺に向いている。先ほどとは違い、そこにはギラギラとした熱がこもっているように見えた。その双眸は真剣すぎるほどに真剣だった。
「やって来るって」
「最後には絶対、私のところへやって来てくれる──私はそう、信じてる」
自らに言い聞かせるように力強く、玲那は言う。目は俺に向いているのに、俺が全く見えていないようにも見えた。俺を通して誰かを見ているかのようだった。
俺は、そんな彼女に何も言うことができなかった。
生きていない、来るはずがないと分かっている相手を、けれども来てくれるのだと信じ切っている。
「楽しみだなー」
目に力が宿っているのに、電灯の光が彼女の眼を照らしているのに、なぜだか俺には、そんな玲那の双眸に一切の光を灯しておらず、反射してもいないように幻視してしまった。
そこで、バスがやってきて、俺たちの目の前にぷしゅうと扉を開け放った。
「バス、来ちゃった。これで終わりだね」
玲那が言い、その言葉通り、帰宅するために別れるまで、彼女は王子様の話題について一切触れなかった。