一人でい続けるのはいけません
ぴしり、ぴしりと、割れていく音。罅が入る音。
何かが壊れていく音──視界の中にある何ものも壊れたりはしていない──幻聴だ。
ノイズが聞こえたというのに、目の前の彼女に変化はなかった。表情は変わらず、身体がズレたり血塗れになったりもしていない。ノイズを挟んだのに何も変わっていない。
「すごいわ、オーリ。よく分かったね。本当によく分かったわね! 名探偵みたい! かっこいー!」
ぴょんぴょんと陽香が跳ね、垂らされた髪房が揺れる。興奮した様子で賞賛の言葉を口にする。そこには、殺人をした自らというものへの後ろめたさが皆無だった。人殺し、と詰っても、「なんで? ソレの何が悪いの?」と首を傾げて、心の底から不思議そうな顔をしてしまうと予感させた。ついさっきまでは幼馴染で親友だったのに、急に遠い存在になってしまったかのように感じた。酷い言葉を使ってしまえば、人間に、見えなかった。
「ああ……すごいだろ」
一言一句が、血を吐きそうなほどに発しづらく思えた。酷く億劫で、気力が削れ切っていて、このまま蹲ってしまいたかった。もう何も見たくなかった。それが正しいのだと思う。何も視界に入れず、暫し思考を停止させ、冷静さが戻ってくるまで待つことこそが、今の俺の行動としては相応しいのだ。これ以上を進んでは決してならないのだと、俺は痛いほど知っている。これより先は分水嶺だ、かろうじて原型を留める日常か──もう、何もかもが崩壊してしまう途へかの。止まるか、進むか。止まるべき、留まるべきだろう。進んではいけない。ならない。その先にはきっと──●が。
「うん。すごいすごいっ」
けれど、俺はそうできてしまうほど利口でもなかった。目の前には事実があり、答えがある。
「じゃあ、さ。どうして殺したんだ」
だから問う。進むことを選ぶ。
「大好きな人を殺されたからよ。もう何度も言ったでしょ」
陽香が答える。
「お前の大好きな人って俺だろ」
訊ねる。
「そーよ」
答える。
ふ、と笑みが零れた。全く意図していない笑みが。愉快だった。痛快だった。馬鹿げていると思った。茶番だった。喜劇だった。笑えてくる。ああまったく、笑えてくる……、
「なあ陽香──俺は、死んでいるんだな」
殺された人間が、自分が生きていると思い込んでいたなんて。
そんなの辻褄が……まるで合わないじゃないか。
「あたりー♥」
これ以上の悦びはない、と断言できるほどの笑顔を陽香は浮かべていた。
途端、左胸が熱を持ち始めた。熱は加速度的に熱さを増し、痛みを伴い始める。なにかが突き刺さっているかのような異物感が左胸を貫く。痛い。痛いなチクショウ。死ぬほど痛い。
「やっと気づいたんだ、オーリ」
膝が地につく、泥土と砂の感触がひんやりとした。蹲るように地面に頭をこすりつけた。左胸の激痛が徐々に薄れ、膜が張られたみたいに音が遠くなった。身体の奥底が、ひどく冷えてきた。身体が横倒しになる。陽香の姿が見える。
「ずっとずっと不思議だったわ。ユーヒもレナも、どうして諦めないのかしらって。元々、オーリは私と結ばれたってのに。それを無理やり引き剥がされて、こうやって連れ戻しにきて……ああでもまたこうやって……きゃひひ」
ざり、ざり、と地面をゆっくりとせわしなく歩き回っている。嬉しいのだろう、この上なく。
「幼馴染なんかより、私たちはずっと長いこと一緒にいるのよ。生まれたときにはもう、いっしょにいたの。お互いがお互いを認識したのがつい最近なだけで。私たちは表裏の関係なの、あの探偵さんが言ってたようにね、なんて素晴らしい関係なのかしら」
俺は、誤解していた。
「憶えてる? ここはね、私たち二人が初めて互いを認識した場所。あなたが私を視つけて、私が始まった……故郷。私は憶えてる。忘れたことなんてないわ。あなただってそうでしょ? レナ、あの気の毒な子とは違うんだから。忘れたりなんかしていないはず。……はずよね?」
一乃下夕陽がソレなのだと、誤解していた。
いちのかゆうひ、イチノカユウヒが。夕陽が、ゆうひが、ユーヒが、一の下夕ヒが、そうなんだって。でも違った。違ったんだ。夕陽じゃなかった。あの子ではなかった。
「迎えにきたわ、オーリ。安心して、怖がらないで」
近づいて来て、屈んで俺の顔を覗き込み、夢を見ている少女のように軽やかに言葉を連ね続けた陽香は、夕陽がいつか浮かべたような得体の知れない表情に顔を歪める。
「別に死んだりなんかしないわよ。だって生きてもいなかったんだもの」
本物の 夕ヒ が、俺の目の前で笑みを携えている。