稲達ヒューマンリサーチ(株)
「ジャックと大五郎──というお話を、所長は知っていますか?」
いつも通りの唐突な切り出しで、芙月が口を開いた。
「なんだね、それは」
そんな言葉を稲達は口に出し、心の中では「なんだね、それは」と思っている。一通り記憶の中を探ってみたもののまるで分からなかった。なんだねそれは、と口に出して内心でも「なんだねそれは」だった。さっぱり分からなかったのである。
「ジャックと豆の木なら知っているが……どのような内容なんだい?」
「豆の木は登場します、いちおう」
一応豆の木は登場するらしかった。
「大五郎、とは」
「ちゃーんの方でないことだけは確かです」
「ちゃーんの方も、理くんの歳でよく知っているね……」
「ググりましたっ」
そんな姪に、現代っ子だなぁ、と稲達は思った。
ちゃーん、の方ではない大五郎。
稲達は思考を巡らせ、答えにたどり着く。
「……まさか、焼酎か。あの大きなボトルに入った」
「ぴんぽーん、あたりでーすっ」
出し抜けのハイテンションでそう言うと、少し恥ずかしかったのか芙月は頬を紅く染め、こほん、とひとつ咳払いをした。
「ジャックと大五郎というお話はですね──停滞、をテーマとしたある種の悲劇なんです。天まで届く豆の木を登ることを夢見て早十数年のジャックが、毎夜大五郎を片手に窓の外の豆の木を眺めて、天上の財宝に想いを馳せる……そんな、物語です」
「それはそれは……夢がないお話だ」
稲達の口から出たのは率直な感想だった。
「いいえ。夢はあるんですよ。夢があるからこその悲劇です」
「ほう」
「ジャックには、豆の木を登るだけの筋力と度胸がありませんでした。そもそも考えてもみてください、雲を突き抜けるような高さの豆の木に、人力だけで登ろうと思いますか? 牝牛と引き換えに得た豆の木を登るのに、今度は命が引き換えになってしまうかもしれないんですよ」
「ヘリはないのかね。あとはドローンのカメラで様子を見てみたりとか」
「ヘリとドローンはファンタジーじゃありませんからダメです」
「ダメなのか……」
舞台設定はファンタジーなのだと稲達は理解した。ではなぜ大五郎が……、稲達は深くを考えないことにした。
「夢を長く、長く見ている内に、その行為が当然なことに、飾り物であることが夢の本質であるかのように錯覚してしまった……悲しい悲しい少年。ジャックの心象風景では、きっと夢は装飾品なんです。ショーケースに大切に保管されて、触ったのは格納した時の一度きり。それからは一切手つかずのまま放置された、ワレモノ注意の夢。そんな大切な夢は、大切にし過ぎてしまったから触れることができなくなってしまいました。ショーケースに入った夢を目の前に座って、ひたすら空想に耽りながら大五郎をちびちびと飲むんです。ショーケースから取り出して捨てられず、壊れてしまうのが怖くて手に取ることも出来ず、どうすることもできないまま、停滞してしまう。そんな物語を──今、考えましたけどどうでしょうか」
「どうでしょうかと言われてもなあ。そもそも理くんは何故そんなことを考えたんだい」
「あそこの棚にカメラが入っていますでしょう?」
と、芙月が棚を指す。そこには古いポラロイドカメラがあった。
「あるね」
「あれが所長にとっての豆の木であり、夢なんです」
「ポラロイドカメラだが」
「もうっ。豆の木ですっ」
怒られてしまったため、稲達は「そうだね」とポラロイドカメラが豆の木であることを認めた。
「ということは、私はアレに対して筋力と度胸が必要だったということになるね」
ポラロイドカメラを見つめつつ、稲達は言う。筋力と度胸……はもう少し広く考えてもいいだろう。乗り越えるべき何かがあって、それを自分が今もできずにいる。そして、目につくところに飾り、それを眺める停滞の日々……。稲達の口元に苦々しい笑みが滲み出てきた。まったくそれは、意図しない苦笑だった。
「所長は本当は、写真家になりたかったのではないですか。カッコよく言えばフォトグラファーに……。だけどなれず、夢として、登れなかった豆の木として、あそこに飾りっぱなしにしてしまっている。そしてジャックは、私という大五郎をちびちびと味わいながら、装飾された夢を眺めてしまっているんです」
まるで物語の最後でつらつらと解を述べる探偵のように、芙月が言う。稲達は黙ってそれを聞いていた。私という大五郎という比喩は少しよく分からないな、と思考の端に思いながら。
「……理くん」
静かに、稲達は口を開く。柔和な笑みを湛えていた。芙月の推理は、確かにそれらしき響きを伴っている。
「なんでしょうか」
「不正解だ」
けど違うから違うと言った。稲達は写真家を目指したことは一度もない。
「え」
「不正解、だ」
「なっ。に、二回言わなくたっていいじゃないですかぁっ」
「はははっ。甘いな。きみに探偵はまだ早いのではないかね」
「うー……!」
姪が涙目になり始めたため、稲達は即座に「だが、良い推理だったよ」とフォローを入れた。
「あのカメラ……豆の木は、確かに私にとっては夢のようなものだ。そこは認めよう。私は夢をあの棚に置き、停滞の日々を過ごしている。それもまた、正解と云える」
「やはりそうだったんですね」
ドヤ顔を浮かべる未熟な名探偵へ、「だがね」と稲達は笑みを浮かべた。
「あれは確かに夢だ。夢なのだが──」
芙月の眼に映った稲達の笑みは。
それはそれは、
「悪夢、の方だよ」
苦々しいものだった。
苦虫を数百回も噛み潰したかのように苦渋に満ちた痛ましい笑顔を、目の前の探偵は浮かべていたのだった。乗り越えられなかった悪夢を、視線の先に見据えつつ。