彼女が指名した
一乃下夕陽の挨拶が終わると、クラス中に拍手が響いた。新しく加わったクラスメイトへの歓迎の拍手だ。転入生は華々しい笑みでそれに応えている。
拍手が止むと、よれた白衣の睦月先生が口を開いた。
「校舎は僕がひととおり案内したが、それでもざっとだ。だから誰かに、一乃下夕陽さんを案内してほしく思う。校舎内を余すところなく、な。申し訳ないが授業の時間を使うわけにはいかないから、昼休みや放課後になると思うが、頼めるかな?」
クラスメイトの誰もが頷き、私が私がと手を上げる女子までいる。彼女はもう人気者だ。なるほど確かに、あか抜けた美人というだけで人気になる素質がある。それにあの雰囲気も落ち着いていて、大人びている。完璧だと、ほとんどの人は彼女を評するだろう。
「まあまあ、そう急かないでくれ。ここは一乃下さんの希望に沿おうか」
睦月先生は一乃下夕陽の方を向き、「案内してほしい希望の人間がいるなら、是非、遠慮なく言ってほしい」と言った。彼女の希望。さて、誰になる?
「希望、私の……」
一乃下夕陽はクラスをぐるりと見まわし、俺と視線が合ったがすぐに外れていった。どうやら俺ではないようだ。正直、ホッとした。彼女と接するにはまだ躊躇いがあった。さっきの影といい、変容としか言えないあの姿と言い……
「それでは、そこのあなたを」
一乃下夕陽が手のひらを差し出した先は……、ああ、俺の後ろか。…………壁しかねえ。
「ほら、とぼけるな久之木。お前が列の一番後ろだろう」
睦月先生がぴしりと言い、クラスメイト達の笑い声が響いた。
そうか、俺か……なんで俺だ。「オーちゃん、おまっ……! うらやま、マジ、うらやまし……おお!?」レモンが騒いでいる。レモンだけじゃない。幾人かのクラスメイトの視線が刺さる。てめえうらやましいぞ、とかてめえうらやましいわ、とかそんなの。
「それじゃあ一乃下さん。きみの指名したあの男子生徒の名前は久之木桜利だ。いつ案内してもらうかは、彼と相談して決めてほしい。久之木も、頼めるな?」
「分かりました」
一乃下夕陽は俺を真正面から直視し、にこりと微笑んだ。
うぎぎ、という表情の同級生たちの視線を受ける中、俺はそれに笑みを返す。それはもう、ぎこちない笑みに違いなかったろう。
「それで一乃下さんの席だが、そこでいいかな?」
そう言うと、睦月先生は俺の前の席を指さした。そうだよね、と思った。俺の目の前の席は空席なのだ。ずっと空席だった。誰も座らないのに、椅子と机だけがあった。もしかして今日この日に転入してくる一乃下夕陽を予めずっと待っていたのだろうか。そんなわけないか。ないな。
「後ろの方の席だから、もし黒板の文字が見えづらいとかがあったら何でも言ってほしい」
「いえ、大丈夫です。私、視力は両方とも2ですから」
一乃下夕陽がそして、俺の目の前の席へと座る。
「じゃあ、授業を開始する。一乃下さんへの質問諸々は休み時間でなんなりとしてくれなー」
授業が始まった。いつも通りの時間が開始された。
一乃下夕陽はちらりと肩越しに俺の方を向き、小さく「案内、よろしくね」とだけ。
こうして、俺が彼女を案内する由となった。どうしよう。