少女の母親を探していた
見上げた空、太陽は雲の奥で鈍く光っていた。
今、俺たちは朝陽ヶ丘高校の校門前まで来ていた。メメント森まではもう少し歩く必要がある。
「ここがお兄ちゃん達の通っている学校?」
立ち止まったレナが、俺たちに向けてそう聞いてきた。
「そうよ」
陽香が答える。
「楽しい?」
即座に、レナが問いを重ねた。
「楽しいわ」
「どうして?」
「オーリがいるから」
「オーリ……そこのお兄ちゃんの名前?」
「ええ」
二人でどんどん会話していく。俺は置いてけぼりだった。
「……オーちゃんって呼んでいい?」
「オーちゃんで良いわよ。幼馴染はみーんなオーちゃん呼びだから。ね、オーちゃん?」
にやり、と俺を横目で見て、陽香が言う。「好きに呼んでくれ」と答えた。陽香がオーちゃん呼びするのはかなり珍しく感じる。……いや、というよりは、なかったんじゃないか、今まで、一度も……だがずっとずっと前にあったような……ああ、あった。あったぞ。小さい頃は陽香もオーちゃん呼びだった。いつの間にか桜利と呼ぶようになったが。まあ、俺としてはどちらでも構わない。好きなように呼んでほしい。
「じゃあ、私もそう呼ぶね──オーちゃんっ」
楽しげに、レナがそう呼んできた。「オーちゃんオーちゃん、きゃははっ」実に楽しそうだ。陽香も「どんどんちゃん付けしちゃって」と笑っている。
「ははは……」
曖昧な笑みが浮かぶ。悪くは全く思っていない。思っていないのだが、レナのオーちゃん呼びは何故だかモヤる。負の感情ではないのは確かだ、ただそれが何なのかがよく分からないだけで。
「ねーねー」
レナが近寄って来て、俺を見上げた。真正面から見つめてくる緑色の虹彩はじぃっと俺の姿を捉えている。一向に視線を外そうとしない。
「……オーちゃんってさ」
「なんだ」
「初恋、あった?」
妹よりも少し下ぐらいの年齢に見える少女からの、そんな質問。「おませさんな質問だわ」陽香の柔らかな笑みを含んだ声が聞こえた。
「初恋か……あったかな」
誰かを好きになったこと。
特に意識したことはないが、俺は普段接する人間のことを皆、好いているはずだ。
「レナちゃん」
陽香に名を呼ばれ、「なあに?」とレナはそちらを向いた。陽香は胸を張り、自慢げな表情を浮かべている。
「そんなの私に決まってるでしょ」
断言だった。確かに陽香のことも好きだ。……最初に好きになった人間であるかは、どうだろう。遠い昔に意識を馳せても、靄がかっていて、すりガラスから奥を透かしているみたいに曖昧で、輪郭が崩れてしまっている。思い出せない。
「初恋は実らないって言うよ?」
淡々と、レナの言葉。純粋に聞きかじったことを言っただけのようにも、淡々と思ったことを言っただけのようにも聞こえる。乾いていて、無感情な声調だった。
「ふーん。なら違うわ。オーリが一番目に好きになったのはユーヒとかなんじゃない?」
適当にも程がある。それに夕陽と出会ったのは陽香よりも後……ああ、後だ。夕陽と知り会ったのは最近なのだから。殺人が起こり始める、前だ。
「ユーヒって誰?」
レナが首を傾げた。この子は夕陽という人間を知らない。
「真っ黒な髪の、綺麗な女の子よ」
「キレー?」
「ええ、キレイなの。そこは認めざるを得ないわ。くやしーけどねっ」
「へーえ。キレーなんだ。オーちゃんもキレーだって思ってる?」
水を向けられた。
二つの視線が俺を……刺し貫いているみたい。なんだか刺々しい。
「まあ、うん。思ってる」
夕陽の顔、見惚れたことすらある。
夕暮れの、時計台の前でだったと憶えている。
「ふーーーん」
陽香。じっとりとした視線。
「見てみたいなー、そんなにキレーなら」
レナ。視線はこちらではなく、朝陽ヶ丘高校の校舎の方を向いている。
「レナは夕陽に会ったことあるぞ」
「あるの?」
「ああ。西霊園のところでな」
「西霊園……んん。確かに見たような気がするけど……」
首を傾げるレナ。憶えていないのも無理もないか。あのときは尾瀬も陽香もいたし、バスを待って乗っている間だけのちょっとの時間だった。
「ああ分かった! あのお胸の大きなお姉ちゃんのことでしょ!」
思い当たったとレナ。
「ううん、レナちゃん。それは違うの。ユーヒのお胸はどちらかといえば小さい」
「小さい方のお姉ちゃん……見た気はするけど……」
思い出せないらしく、うんうんとレナは首を捻っている。そのうち煙が出てきてしまいそうだ。
「無理はしないで。もう行きましょうか。歩いていたらまた思い出すかもしれないし」
陽香がそっとレナの肩に手を置き、そう言った。「うん」とレナは頷く。二人は隣り合い、歩き始める。その背を見、俺は視線を今一度朝陽ヶ丘高校の方へ向けた。青空の下、校舎棟が見える。おそらく、無人だろう。ここからは見えないが、ちょうど視線の先には中庭が広がっていて、そこには時計台が建っている。夕陽を案内した時に連れて行った、奇妙な名称がついている時計台……確か、『狂ったヂ軸』という名称がついていた。『狂った時軸』。時間が狂っている。狂うというのはどういうことだろう。
「オーリ」
「オーちゃん」
名を呼ばれる。
俺がいつまでも立ち止まっているから、呼んだのだ。見ると、やはりよく声を発せたものだという考えが浮かんだ。立ち止まってこっちを見ている陽香と、相変わらず喉や身体全体から血を垂れ流している陽香と、同じぐらいの背丈のレナが立っていた。急に成長したらしい。そんなわけあるか、と思うが、現に目の前でレナは急成長した。二つ結びの房にした金色の髪と、相変わらずの緑がかった目で、こっちを見ている。なるほど、時が狂うとはこのことか。合点がいった。成長した彼女の名はレナだ。ほら、忘れていない。もう忘れないと決めたのだから、忘れていいわけがない。しかし、ノイズはいつ来てくれるのだろう。終わりのノイズは、まだか。あれが来なければ、現実は気の狂ったままだ。
見れば、二人が揃って指さしていた。俺を指さしていた。細かく言えば、俺の顔より少し下、左側の、胸元だ。何があるのだろうと見てみ ヂヂ「なにボーっとしてるのよ」「オーちゃんどうしたー?」陽香と、縮んだレナ。彼女たちはもう何処を指してもいない。
「アハハッ、ごめんごめん」
笑い、俺は歩き出した。
もう、分かっている。ノイズとノイズの間に挟まれたあの時間帯、俺の心臓にはナイフが突き立っているのだということは。一体それが何を意味するのかは……さっぱり分からない。ああ、分からないさ。分かってヂ は、生きてくれと原 ヂヂいけなヂいん 頁ってくれた彼女の為にヂヂだ。……頭の中でノイズが止まない。
正常異常が、糾った縄みたいに次々と俺の下へと訪問してくる。彼らは決して一緒にはやって来ない。お互いがお互いの振りをして、振舞いを真似て、俺の目の前に現れる。そしてやがては、どっちがどっちなのか分からなくなるのだろうな……いけないな。これじゃあいけない。自暴自棄になるには、俺はまだまともすぎる。