『モルスの初恋』
54
校内を歩き回った後、最後に死は時計台の前まで来た。処は中庭、時刻は真昼。青々とした芝生の中を煉瓦式の道が延びている。ベンチには誰も座っていない。生徒の姿は休校の為に皆無だった。
「中々に高いわね……」
死は一人呟く。
間近で見上げる直方体の建物は、予想以上に高く聳えていた。
校舎の三階分はあろうかという高さのその時計台は、頂きの部分に丸い文字盤が四か所、それぞれの面についている。そのいずれも同様に長針と短針があり、一斉に時を刻んでいる。さる芸術家が設計したもので、『夕陽の訪れ』という名称もついていた。名前のわりに、夕暮れになろうと別段変わった機能が作動するということもなく、朝陽が昇ろうと夕陽が暮れようと夜が深まろうと未明に白もうとも時計の文字盤は四面とも精確な時を刻み続ける。大小様々な歯車にくわえ、正確な標準時刻の電波を時計台の内部アンテナが受信する、云わば巨大な電波時計なのだ。だから、刻まれる時針は常に正しい。アナログではなくデジタルに誤差を修正しているその時間が狂ったことは、今まで一度もないとすら聞く。
暫くの間、死は先日に桜花と穂乃果が座って昼食を摂っていたベンチに一人座り、時計台を見上げていた。
「……本当に高い。一番上から飛び降りでもしたらどうなるんだろ」
死の脳裏に、時計台の上から飛び降りた挙句にべちゃりと潰れた誰かが見える。想像の中に目を凝らすと、その顔の造りは道戸穂乃果に酷似していた。
時針は微かに進み、分針が半分の半分の半分ほど動いた。
「それにしても、地味な色合いだわ。お墓みたい」
時計台の外観は、白と黒と灰に占められていた。
散り散りに敷き詰められた無彩のタイルは太陽の光を跳ね返しており、真新しさを未だ感じさせた。かと思えば、所々に微かに苔が見え、まるで数十年の時を経た様な蒼古とした印象を受ける。彩皆無のその様は、さながら墓標のようだ。傍には何かが埋葬されている。あるいはこれから葬られる。死は立ち上がり、時計台の麓まで近寄る。やはり高い。
誰かの墓標の下に死は佇む。この墓に相応しきは誰となるだろうか。
「……ここで待つわ」
誰かへ言うワケでもなく、死は自らに聞かせるように呟いた。
園田咲良の顔と、小瀬静葉の胸と、遠泉早紀の肢体。
ようやく揃いて完成した自らの肉体で、さて、死は何をしようというのだろう。ここで誰を待ち構えて、どのような台詞を用意し披露し、いかような場面を演出しようというのだろう。ただ一つ云えるのは、それは間違いなく最高潮となるだろうことだ。死にかけた少年との出会いに端を発したこの一連の殺人劇の、幕切れ近い恋愛劇の、健気で哀れな恋する死の初恋がどう転ぶのか──これより上演される。嗚呼全く、楽しみでならない。
55
「告白、する」
死は告げる。あなたの命が期限切れです、というものではなく、単にあなたが好きですというそれだけの言葉を告げようとたった今決心した。
その為にまずは、条理桜花が此処へ訪れなければならない。
告白とは相手があってこその行為だ。好意の吐露には受け取る側が必須なのである。告白という場面には、だから常に二人以上存在する。告白する側、される側……それにプラスし、それを見る者達。あるいはあるいはあるいは、苛立ちながら、ナイフをポケットに忍ばせながら、悲しみながら、自虐しながら。観劇者達はいずれも端役、告白の当事者こそ主役、彼らが主役なればこそ、悲劇は喜劇は極端に振れる。軟な悲劇喜劇など主役足り得る彼らに申し訳が立たないではないか。彼らにはとことんまで苦しみ、とことんまで笑ってほしいというのに!
ああ必要だ。だからこの場面に必要だ。
死が告白する相手が必要だ。死が好きでたまらない相手が必要だ。
死が人間になろうとしたほどに想う相手が──条理桜花が。
「……!」
どう呼び出すべきなのだろうか、などと考える必要もなかった。
正に今、その条理桜花本人が訪れたのだから。一人だ。なんとまあ相応しい人数なのだろう! 煩わしい道戸穂乃果の姿はない。置いてきたのか。これはこれは都合の良い!
「オーカ……」
桜花が此処を訪れた理由があろうとなかろうと。
それでも、運命だ。
死はこれより告白する。
56
「私のこと分かる? 分かるわよね、そりゃあ、分かるか」
桜花は無言で、真正面から死を直視する。じり、と一歩、後ずさった。
「ま、待って、別に悪いことをしようとは思ってないの」
「……何が言いたいんだ」
桜花が、死に向けて言葉を発した。まともな会話を交わしたのはこれが初めてではないだろうか。ただそれだけのことなのに、死の感情は喜びへ振れた。凄まじい勢いで振り切った。
「い、いやね、ちょっと言いたいことがあったのよ。オーカ、あなたに……私、あなたのこと、が──」
振られはしないかと、死は怯えている。
ラブ極振りの死の健気さ、正にここに極まれり。
恋愛成就の一歩手前の段階まで来たのだ。
口が震えている。死は恐怖している。死だというのに怖がっている。
「好き、なの」
初恋、実ると良いね。