夕陽ヶ丘高校図書室
理芙月は図書室を好む。
その理由は、表層的には単純極まりない──一人でいられるから、だ。教室にいる限りは、芙月は友人達にとっての友人でいなければならない。それはそれで楽しいのだが、彼女は一人でいるのもまた好ましく思う類の人間だった。一人でいることで、自らの不確実さを痛感しなくて済む。深いところではそのような理由となる。
周囲は確実に人間だ。対して私はどうだろう?
そのような問いを繰り返さずに済む。繰り返して繰り返し続けて壊れかけずに済む。確実に人間であろう存在に囲まれる私はしかし人間とは言い切れない。悲しみに暮れる母の表情を想起する。悪いのは彼女ではない。謝罪の言葉を口にする伯父の顔を想い出す。悪いのは彼ではない。誰も悪くなかった。だから、心優しい少女は誰かを無理やりにでも憎むという逃げ道を選べなかった。誰も悪くないのなら誰を憎むこともできない。自問自答を繰り返し続け、その度に自らの不確かさを実感し続けるしかなかった。
理芙月は、人として不明瞭だった。それを知るのはごく少数の人間のみである。
書架の前に佇み、芙月は背表紙の中に自らの興味を惹くものを探し出そうとしていた。滑りゆく視線の中から、なにか面白いものがないかと待ち望んでいた。見慣れてしまった本棚だが、その日の気分次第では心に引っかかるタイトルがあるときはあるし、ないときはさっぱりない。今日はない日だ、と芙月は適当な本を一冊抜き出し、それを手に机へと向かう。
「……?」
すると、陽光に照らされて輝く金髪の後頭部が見えた。この夕陽ヶ丘高校内において金髪はそうそういない。校則はそこまでお固くないため、髪を染めている者もいるにはいるのだが、それでも金色にしているほどの人間はいなかった。目の前の諏訪玲那以外には。といっても彼女の髪の毛は地毛だ。当人がそう言っている。
「……」
芙月は悩んだ。近寄るか、近寄らないか。
諏訪玲那は誰とでも仲良くできるタイプの女の子だ。誰とでもニコニコと会話し、きゃははと笑い合える。芙月に対してもそうだった。明るく、誰からの人気も得られる人間的優等生。彼女のようにはなれないと理解している。彼女に思うことと言えばそれだけだった。あとちょっと所長と仲良さげにし過ぎてる気もするにはするぐらい。そんなに気にしたりとかはしてないけどあんまりべたべたくっつくのもどうかと思う。思うことと言えばそれだけだった。
(まあ、いいか)
そう、芙月は玲那に近寄った。好奇心故の行動だ。あとは、この頃玲那と接する機会が多かったため、多少なりとも気を許しているというのもあった。悪い子には見えない。
近寄ってみると、真剣な眼差しで玲那は何かを読んでいる。一冊のハードカバーのようだった。タイトルは見えない。
「うん……?」
視線と気配に気づいたのか、玲那が本から外し、芙月を見つけた。その表情が真剣一色から途端にいつもの玲那らしい表情──つまりはにこやかなソレへと変わる。
「あれ、芙月ちゃんじゃん。どしたの? 私に何か用?」
「い、いや、特にはないけど……なに読んでるのかな、って」
玲那の笑顔に若干気圧され気味になりつつも、芙月は問う。すると玲那は「ああこれ?」とパタンと本を閉じた。タイトルが見えた。『モルスの初恋』。白地に赤い染みのようなものが点々と落ち、題字は黒い。隅っこの方に塗り忘れみたいに金色が微かにあった。白と赤と黒と金。
「読んだことある?」
「読んだことはまだない、けど……聞いたことはあるよ」
聞いたことはあった。ニュースで見たこともあった。
『モルスの初恋』。著者は水代永命。眼鏡をかけた優しそうな中年男性。だというのに、その本の内容は……
「有名では、あるよね」
芙月は言葉を選んだ。
「非難轟々だったもんねー」
玲那は言葉を選ばなかった。だが、概ねその通りだ。『モルスの初恋』は、過去の事件を下地にしている。その事件とはここ夕陽ヶ丘市で発生したものだ。何人か人が死んだ。殺された。ということは、悲しんだ者がいた。喪失の余波を受けた者がいた。遺族となった者達がいた。怒りを抱いた者達がいた。非難とは、そんな彼らを中心として生じ、無関係な人々も義憤に駆られて怒り狂った。その結果、『モルスの初恋』は有名となり、皮肉なことに賞を取るまでの知名度となった。そして水代永命は一躍有名になり──死んだ。ある日、突然。
「面白いの?」
芙月は率直に訊ねる。
「気の毒だな、ってなる」
玲那は本当に気の毒そうに、はあと息を吐いた。
「それは登場人物がってこと?」
「うん。人間になりたがっている哀れな存在がってこと」
玲那の言葉に、芙月は自らの心臓が跳ねるのを覚えた。彼女は決して自分のことを言ったわけではないのに、反応してしまった。人間になりたがっている哀れな存在。それは正しく……
「芙月ちゃんも読んでみる?」
に、と笑いかける玲那の表情に。
芙月はほんの一瞬だけ──寒気を覚えた。いつもの笑顔なのにどこか冷たい。笑っているのに何かネジが外れてしまっているかのような感覚を抱く。仮面のような笑顔だ。べろりと剥がれたら、いったいどのような表情が潜んでいるのだろうかと不安を覚えてしまうような──失礼すぎる、と芙月は心の中で自らを叱咤した。
「……気が向いたら、読んでみる」
芙月がそう答えると、玲那は「その時は言ってね。私のを貸すよ」とまたもやにこりと笑った。今度の笑顔は、まともな笑顔だった。……ああ、やはり失礼。