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『モルスの初恋』

     3


 退院の日が訪れた。

「退院おめでとー、オーちゃんっ」

「ホノカ……来てたんだ」

「うん。おばさんとおじさんにお願いして、連れてきてもらっちゃった」

 桜花の病室に訪れたのは、両親と幼馴染の少女──道戸穂乃果。白のワンピースに麦わら帽子という夏に相応しいお出かけ用の服を着て、彼女は桜花を連れに来たのである。

「えへへ、新しい服なんだよ。似合う?」

 照れくさいのか、穂乃果はいつもよりぎこちない笑みで桜花に問う。その緊張は桜花少年にも伝染し、桜花は思わず顔をそむけてしまった。けれどしっかりと、「うん……似合う」とだけは言った。「そー?」心から嬉死そうに、穂乃果は笑った。父と母はニヤニヤと桜花を見つめていた。

「じゃあ、オーちゃん、行こ?」

 穂乃果が、手を差し出す。

 桜花を連れて行くために、手を差し出したのだ。

「うん……」

 桜花はその手をとった。柔らかい。自分の手よりもずっと。父と母はニヤニヤと桜花を見つめている。「青春だな」「青春ねえ」そんな言葉を交わしている。

 病室に名残りは皆無である。桜花少年の傷はすっかりと治ってしまった。ほんの少しだけ傷が残るだろうと担当の先生は言っていたが、生活するには何ら問題はないとのこと。桜花は欠片も気にしていない。傷が残ろうとも、それは後頭部で、目立つことはまずないのだから。

 担当の先生、それにお世話になった看護師さんたちと挨拶を交わし、両親が諸々のお話を先生たちと交わしている間に、桜花と穂乃果は先に病院を出た。

 外は快晴だった。雲一つない。

「ゼッコーの退院日和だねー」

「そうだね」

「ふふー」

 穂乃果の機嫌はとても良かった。そよそよと吹いてくる夏の風に飛ばされないように、麦わら帽子を押さえている。

「エモンも来たがってたんだけど、なんか用事があるみたいでエモンのお父さんとお母さんが連れてっちゃった」

「そっか、エモンも……」

「ね、ね、オーちゃん?」

「なに?」

「あのね……」

 何か言いたげな幼馴染に、桜花は彼女の言葉が発されるまで黙って見つめていた。らしくもなくもじもじと穂乃果は逡巡し、少し経ってから、

「んー、いいや、まだ。そのときじゃない」

 と、断念した様子でにこりと笑う。

「……? なにを言おうとしたの?」

「おしえなーい」

 えへへー、と穂乃果はいたずらっぽく言う。

「でも、そのうちにゼッタイ教えるね」

「わ、分かった」

 桜花は穂乃果の態度が気になったものの、それよりもさらに気になっていることがあった。ケガをした後に目を覚ましたあの日のあの瞬間からずっと、気にかけていたものがあった。

「でさ、オーちゃん」

「うん」


「なんでさっきから、そんなに周りを気にしているの?」


 穂乃果は、桜花がそわそわと周囲に視線をやっているのに気づいていた。それがなぜかは分からないが、どことなく、そこに桜花の怯えがあるのを感じとっていた。

「い、いや……なんでも、ないんだ……きっと」

「むー?」

 歯切れの悪い桜花の言葉に、穂乃果は不満そうだった。

 やがて、桜花の両親が病院から出てきて、桜花と穂乃果はいっしょに車へと向かった。


 桜花の父親が所有する車に乗り込むと、ゆるやかに車は発進した。

 後部座席の桜花の隣には穂乃果が座り、運転席と助手席には父と母。

 気持ち距離が近い穂乃果に気恥ずかしさを覚え、桜花は窓外を眺めていた。これから去りゆく病院の、自分が入院していたであろう部屋、そして病院の入り口……「あ」

 いた。

 黒い影が、いた。

 あの日、あの瞬間に見つけた黒い影が。

 スー、と。黒い影が動いている。

 明らかにこちらへと向けて、動いている。

「ついて……来てる……」

「オーちゃんなに見てるの?」

「い、いや、なにも……」

 上の空の桜花に、穂乃果はやはり不満そう。

「もう。見るなら私にしてよね」

 勇気を出してそんなことを言ってみるものの、やっぱり桜花は窓の外を呆然と見つめていた。その視線の先を穂乃果もまた見てみるものの、そこには何ら変わり映えのない景色しかなかった。


     4


 見てくれない。

 彼は見てくれない。

 私を見てくれない。


 ……あ、見てくれた。今、見てくれた。嬉しい。うれしい。


 でも、どうしたら私を見てくれるのだろう?


     5


 桜花を乗せた車は進む。

 さっき病院の入り口に見た黒い影は、今はもう見えていない。どこにもいない。景色は次々過ぎていく。雑居ビル、歩行者、街灯、街路樹、駅、住宅、公園……影はいない。

「むー……」

 真横から唸り声が聞こえる。

 窓の外に向けていた視線をちらと横にやると、真正面からこっちを睨みつける穂乃果の目があった。ジトっとした目つきだ。

「むー……!」

 幼馴染が不満げに唸り続けている。催したのだろうか、と桜花は推測した。

「穂乃果、どうしたの? トイレ?」

「そんなわけないでしょっ」

 そんなわけなかった。穂乃果の機嫌はさらに悪くなり、けれど桜花はその理由が分からない。

「オーちゃん、窓の外ばっかり見てる」

 桜花の意識は外に向ききっていた。また現われはしないかと、アレが出てきはしないかと、そんなことがもう二度と起こらないことを期待して見続けていた。穂乃果のことは頭からすっかり抜け落ちていたのである。

「キレーな子でもいたの? 探してたの? ここに私がいるのに?」

「う、ううん。違うよ」

「ふうん? ほんとー?」

 穂乃果のジト目から視線を逸らすと、ルームミラー越しに父と母の顔が見えた。温かな目をしていた。まるで幼い少年少女が繰り広げる微笑ましい痴話喧嘩を眺めているかのようだ。

「私はオーちゃんとお話がしたいの。だから窓ばっかり見ずに私を見てよ」

「穂乃果を……」

 幼馴染の望みに、桜花は真正面から彼女を見た。

「……あ、あんまりじろじろ見ないでっ」

 ぷい、と穂乃果は顔をそむける。女の子ってよく分からないな、と桜花は思った。


「…………あれは」


 ハンドルを握っている父親が、どこか唖然とした様子で言う。そしてすぐに、

「……ダメだ。見せてはいけない。こっちの道に入る」

「え、ええ……」

 すぐに車は左ウィンカーを出し、細い道の中へと曲がって入っていった。赤。黒。白。赤。黒。黒。黒。黒。黒。


「うぁ……」


 穂乃果はまだ顔を逸らし、視線は斜め下を向いていた。だから見えてはいないだろう。アレを、アレらを、視てはいないだろう。だが、桜花は見てしまった。

 大きな交差点、だった。

 黒いブレーキ痕を残し、白のワゴン車が道路の中央線を大きくはみ出して斜めに止まっていた。黒。ワゴン車の下に、なにかが横たわっていた。黒い。赤色の液体が、その横たわるなにかの周囲を満たしていた。黒い影。人だかりはまだできていない。パトカーが二、三台、周囲に止まっていた。黒い影がいた。立っていた。さっき病院の入り口で視た影が……確かに視界に貼り付いていた。

「オーちゃん? 顔、まっさお……酔っちゃった?」

「いや……平気」

 時間にして数秒にも満たなかったその光景。

 恐怖と驚愕は、まだ浮かんでこない。それぐらい短い時間の間に、黒い影の姿だけは、いやにはっきりと脳裏に刻み込まれた。轢き潰された人間の傍で、黒い影がこちらを見つめていたという事実が、記憶に組み込まれた。

「桜花……なにも、気にするな」

 父親のそんな言葉に、桜花は呆然としたまま無言で頷いた。

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