二人になった
「まずは挨拶しなきゃですね、おはようございます」
玄関のところで、陽香はぺこりとお辞儀をした。俺ではなく、稲達さんに向けてだ。当の稲達さんは暫しきょとんとした風に目をぱちくりさせると、すぐに笑みを浮かべ、「やあようこそ。今日はお客さんが多いようだな」と言い、立ち上がった。
「きみもコーヒーでいいかな?」
「はい。ありがとうございますっ」
外向けの快活な笑顔で言うと、陽香は「お邪魔しまーす」とさっさと室内に入って来て、俺の隣にどっかりと腰を下ろす。
「何で来た?」
「んー? あなたに会いにだけどー……」
素知らぬ顔でそう言った後、陽香は「あ」という表情を浮かべ、「そうそう、なんとなくここに来たらオーリがいたのよ。運命の導きみたいね」と言い直し、ふふんとなぜだか自慢げな顔となった。バレバレなのに。
「行き先言ってたよな……」
「それでも運命よ」
それでも運命らしい。
そうこうしていると、稲達さんが戻ってきて、陽香の目の前にコーヒーのカップを置く。「ブラックで良かったかな?」「ええ、はい。ありがとうございます」
稲達さんが俺たちの対面に座る。
「どのような用件でここへ?」
「えっとですねー、浮気調査でっす。オーリくんの行動がこの頃怪しいので」
そう言うと、陽香はきゃひ、と笑った。今の彼女は上機嫌であるらしい。
「ハハハ……」
稲達さんは困ったように笑うと、「どうかね?」と俺に水を向ける。
「浮気なんてしていません。そもそも付き合ってもいないんです」
そう答えると、稲達さんは「おお……」と言い、「きみも大変なようだ」と陽香へ苦笑を向けた。「大変なんですよー、もーそれはそれは」と陽香は返す。だが言葉の内容に反して表情は相変わらずの笑顔。機嫌が本当に良い。何か良いことでもあったのだろうか。起きたのだろうか。あるのだろうか。起きるのだろうか。……。
「本当は何しに来たんだ?」
「ん、オーリの様子見っていうのは本当。一人で出てったし、ユーヒも舞ちゃんも心配してたし。それでやっぱりオーリを追いかけた方が良いってなってね。舞ちゃんはちょっとまたお眠だったし、連れ出すのもかわいそうだったから、誰か一人が行く、となってね。それじゃあ誰が行こう? ってなって、私が立候補したらユーヒがジャンケンよ、と言うからジャンケンして、私勝ったの、チョキで。それでここに来たというわけです」
「そうですか」
「はい。あとあと、オーリはこの後私とショッピングだからね。ついでに買い物もしとこ、ということに決まったから」
「ああ、うん。分かった」
「決まりー。んふふ、デートデートデートっとー」
この後の用事が決まってしまった。まあ稲達さんを訪ねた後は何も用事がなかったからちょうどいいか。そして稲達さんへの用事も、もう済んでしまった。
「……すみません。稲達さん。俺たちそろそろ出ます。今日はありがとうございました」
一息に、稲達さんへ言う。俺と陽香の会話を面白いものでも見るかのように眺めていた稲達さんは「そうかね。力になれなくてすまなかった。なにか有力な情報を得られたら、きみにも伝えるよ」と、やはり、笑みを浮かべた。
「じゃ、行こうか」
「うん」
陽香と二人、靴を履き替えていると、稲達さんがふと、
「きみ達──1足す1は分かるかい?」
そんな質問をしてきた。
何かの冗談かと思ったが、稲達さんの表情は真剣そのものだ。質問の意図はさっぱり分からない。
「2でしょ」
当然と、陽香が答える。
「うむ。それが常識だ」
一つ微笑むと、稲達さんの眼が俺を向く。俺の答えも求めているようだった。2じゃないのか。2という答えに満足していないのだろうか。
「……その1は、きちんとした1なんですか」
だから、そう問い返した。1足す1が2であることに不満足なら、そもそもの1がおかしいと考えるべきではないのか。深読みしすぎのような気もするが。
「さあどうだろう。自然数ではないのかもしれないねえ」
稲達さんは、陽香が答えたときよりも満足だと思う笑みをすると、「頑張りたまえよ」とだけ。それ以降はただにこにこと微笑するだけだった。もう、するべき会話は終わってしまったかのように。
「失礼します」
そう言うと、俺と陽香は探偵の事務所から出た。
◇
「そんじゃあ行きますか」
探偵事務所のあるビルの前、朝陽ヶ丘通りの路上に出ると、陽香はぐ、と伸びをしてそう言った。
「どこに行こう。商店街のほうに行くか?」
「んー。日用品だけだし、スーパーで良いかなって思うのよ。それでいい?」
「オッケー。行こう」
スーパーはここから近い。
朝陽ヶ丘通りの途中にある。
「荷物持ち、よろしくねー、オーリ?」
「まかせろ」
「ふふふー」
気持ち跳ねるように陽香が歩き出す。サイドのテールがぴょいんぴょいんとご機嫌に踊っている。やはり、今日の陽香は上機嫌だ。何か良いことでもあったのだろうか。あるいはあるのだろうか。
「なにか良いことでもあったのか」
だからそう、訊ねた。訊ねて少し後悔した。昨夜に俺たちは近泉の死体を見ている。喜びとは真逆にある光景を見ている。それからの今日だ。少なくとも俺は引きずっている。機嫌の良い陽香にそう問いかけるのは、なんだか我ながら皮肉の響きを感じた。俺自身はちっともその気持ちはないのにも関わらず、だ。
「うーん。分かんない」
帰ってきた答えはそんなものだった。
彼女に分からないのなら、俺に分かる道理はない。
「ね、手、つなごーよ」
楚々と近寄り、陽香が微笑みと共に言う。
「……ああ。俺の手でよければ」
照れもあるにはあるが、幼馴染の要望を聞かない理由がない。
「ケンソンしなーい。オーリの手だったら私もぎ取ってでも持って行くんだから」
「あははっ、怖いことを言うなよ」
「もちろんそんなことしないわ。手だけあってもしょうがないもの。オーリは全て揃っていてこそのオーリよ。欠けてたりしてほしくないの──はい」
そう、陽香が手を俺の方へ差し出す。手のひらを上に、ダンスのお誘いのように。
彼女の手のひらに俺の手のひらを合わせ、そのまま繋ぎ、ゆっくりと下ろした。
「ふふふ──あははっ」
笑う。笑う。彼女が笑う。機嫌良く、何か良いことがあったみたいに、あるかのように。
「行きましょ。今の私たちを見て相思相愛であることを疑う人間なんていないわ」
そして俺たちは歩き出した。
陽香の手は当然のように血の温かみがあり、暑さのせいか、多少汗ばんですらいた。それが人間の手でなければ、いったい何が人間の手となり得よう。そう、俺は考えている。