探偵に会った
家を出て、朝陽ヶ丘通りを目指す。
朝陽ヶ丘通りにある『稲達探偵事務所』を目指す。
空は未だ晴れ晴れとしていて、太陽の光が街全体を突き刺している。強い日差しだった。
今は俺一人。一人だけ。
そして。
何事も起こらず、探偵事務所の前の扉にまで辿り着いた。道中に通行人はいなかった。通りを歩いているときも、人はおろか車とすらすれ違わなかった。ここまでの道に俺以外の人間の気配が皆無だった。きっとみんな俺を残して何処かへ去ってしまったのだろう……異常が無限に続くなら、そんな変化もあるに違いない。
「……まずいな」
今しがたの思考には諦観があり、自棄があった。首を振って脳裏に溜まる負の澱を散らす。本当に散ったかどうかは分からない。恐らく気休めだろう……また首を振る。
そして深呼吸をし、扉に手の甲を近づけ、ノックした。
すぐに扉は開けられた。
「やあ。きみか」
稲達さんはいた。いつものスーツ姿に、いつもの髭を蓄え、鷹揚な笑みを浮かべていた。その態度は余裕に満ちており、まるで予期していたかのようだ、俺が来るのを……「今日は一人で来たようだね」
「おはようございます」
挨拶と、会釈。最低限の礼儀を見せる。
「ああ。おはよう──なにか、訊ねたいことがあるのかい?」
ん? と稲達さんはわずかに笑い、「玄関で会話するのもなんだ、入りたまえよ」と俺を促した。スリッパを取り出し、丁寧にそろえて床に置き、そのまま部屋の間仕切りの奥へと歩み去った。「失礼します」靴をスリッパに履き替え、事務所内へ入る。少し肌寒い。ストーブを焚いたり暖房をつけたりはしていないらしい。カーテンが開かれているのだが、室内全体がどこか薄暗く、寒さを心なしか助長しているかのように感じる。ソファーの近くで突っ立っていると、間仕切りの奥から、声。
「コーヒーでいいかい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
こぽこぽという音が微かに聞こえる。コーヒーを沸かしてくれているようだ。
そう時間も経たず、稲達さんはトレイの上に二つのカップと包装された菓子を乗せ、やってきた。
「とりあえずは座るといい」
突っ立ったままの俺へ、稲達さんは笑う。大人の余裕を感じさせる笑み。
俺が座ると、稲達さんは俺の目の前と対面にコーヒーの入ったカップを置き、その二つのカップの中点から少し俺よりのところへ菓子の入ったバスケットを置いた。わっさわっさとスーパーなどでよく見る市販の菓子が積まれている。多い。
稲達さんは俺の向かいのソファーに腰を下ろすと、カップを手に取り、一口飲んだ。俺もそれに倣い、目の前のコーヒーカップを手に取る。……。今、このカップ内になにか毒物が入れられていたとしたら……そう考え、俺はそのままコーヒーに口を付けた。やはり苦かった。
「さて、本題といこうか──きみは何かを訊ねに来たのだろう?」
問いかけておきながら、稲達さんは既に答えを知っているかのように薄笑いを顔に貼り付けている。全てを見透かすかのように、その表情は冷めていた。気圧されてはいけない。重くなってくる思考をフルで動かし、
「……誰が、犯人でしょうか」
そう、訊ねた。
稲達さんの瞳が細められる。やはり、この人は俺の口から出る問いを予想していた。事実、その通りとなったのだ。そしてそんな探偵の口からどのような答えが返って来るのか、けれど俺には予想がつかない。考えようにも、思考が鈍っている気がする。
「それはね──」ヂ。
世界の彩度が、一段階落ちた気がした。────。……ああ、ずっと先まで続いている。────。
より無機質な色へ、無彩へ下がる。それは黒く、白く、灰色だ。その中で唯一の有彩色──赤色が、この空間の中でひときわ主張する。赤く紅く、俺の眼に映る。
「死、だよ」
探偵は笑う……笑うと表現するには少々、口の端が吊り上がり過ぎている。いつもの大らかな笑顔ではありえなく、狂人のような笑みだった。今の彼はどう取り繕っても探偵には見えない。今にもケラケラと嗤い出しそうな稲達さんから視線を逸らし、事務所内を見回す。所々が赤い。床には点々と血痕が続いており、間仕切りの向こうへ消えている。……これはどういうことだろう? 黒檀のテーブルの上にあったはずのバスケットはなく、代わりに一冊の本が開かれた状態で置かれていた。何度も何度も何度も何度も読み返されたのだろう、ページがすっかりよれてしまっている。タイトルは分からない。文章の内容も……上手く、読めない。胡乱だった。真っ暗な部屋で見ているかのごとく、文字が溶けてしまっている。
「描写の視線は君を中央に据えている」
いつか言われた記憶のある言葉を、また稲達さんが口にする。俺を見据えるその視線は、そのいつかのようにまっすぐ過ぎていた。ヂヂ。
「ふむ……どうしたんだい?」
いつの間にやら、稲達さんの表情は訝しげなものへと変わっていた。
「大丈夫かい?」
「いえ……すみません。少しボーっとしていました」
「いきなり無言になってしまったものだから、驚いてしまったよ」
そう言うと稲達さんは柔和な笑みを見せ、コーヒーを一口飲んだ。
「あの」
稲達さんへ窺う。
「なんだね?」
「今の俺の質問の答えを、もう一度言ってくれませんか。ちょっと聞き逃してしまって……」
犯人は誰だ、という問いに対する答えを聞いていなかった。「死」という答えは、あれはノイズの間に挟まれた幻に過ぎない。幻に。
「ああ……ハハハ、また言うのもなんだがね。幻滅させるだけかもしれないが……」
苦笑する稲達さんの言葉から出てくる次の言葉。今度は俺にも予想がついた。
「すまないが、私には分からないよ」
やはり。
その答えは、俺の直感が外れてしまったことを意味する。
「探偵ということで頼って来てくれたのだろうけど、私はそういう経験が皆無でね。殺人事件を解決に導いた輝かしい事実など持ち合わせていないんだ」
本当に申し訳ないように、稲達さんは口をへの字にして目を瞑った。
そして──
「私に、この事件を解決することはできない」
そう、言い切った。断言したのだ。
敗北を、目の前の探偵は宣言した。それは探偵としてあるまじきことじゃないのか。
「いえ、俺こそすみま──」
礼を述べようとし。
キイイイ。
そんな扉が開かれた音に遮られた。
「あ、やっぱりいた」
入ってきた者は、俺を見つけてそう言った。
「陽香……?」
事務所入り口には陽香がいたのである。