『モルスの初恋』
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鼻歌を奏でつつ、死が姿見の鏡の前で身体を捩じっている。
おかしなところはないかな、変な部分はないかな。首はきちんとくっついているかな、血が零れちゃってたりしないかな。胸は二つともくっついてるかな、切断面は見えないようになってるかな、触られたときに落っこっちゃったりしないかな。両腕は、両脚は、きちんと繋がっている? ぶんぶんと振る。飛んでいったりはしない。よし。きちんとくっついている。接合面は大丈夫そう? 赤い線が入ってたりはしてない? よく見て。よく、じっくりと、余すところなく。よしよし。キレイな身体。人間の身体! よしよっし。ふふ。ふふーん。きゃははっ。やったー。
先ほどからずっとそんな具合。えらく上機嫌なものである。
身体が完成してよかったね、と微笑ましくも眺めてほしい。
「私、告白する!」
死は宣言する。遠泉早紀の右手で握りこぶしを作り、園田咲良の顔で決意を浮かべて、誰にともなくはっきりとそう言い切った。全裸で。
「うん? 穂乃果は何処かへ行ったのか?」
「桜花くんのところよ。と言っても、すぐ隣なんだけどね。すぐそこだから危険はないでしょうし、穂乃果も桜花くんと居た方が安心するでしょうから」
「まあそうだな。昔からあの子はべったりだった。まさか思春期になってからもべったりとは思いもよらなかったが」
「ふふ。嫉妬する? 愛娘が一人の男の子にベタぼれしてて、父親としては複雑なところかしら」
「まさか。まあ桜花くんと穂乃果がくっつくことになって、桜花くんが挨拶に来たのなら、そのときはじっくりと話そうとは思っているが。父親として」
「何も心配いらない気がするわ。桜花くんと穂乃果は、きっと何も心配いらない。私たちは祝福するだけよ」
「……だな」
「その時が来たら、父親としてあなたは泣いてしまいそうね。それとも、ずっとしかめっ面をしてるのかしら」
「さあなぁ。そのときが来ないと分からない」
居間の方から声が行き交う音が聞こえた。大人の男性と、大人の女性の会話だ。道戸穂乃果の父と母の会話──死がいるこの場所は、道戸家である。条理桜花の家の、すぐ隣となる。
穂乃果の父と母は、死がいることに全く気付かない。存在の気配すら感じず、家の中に居るのは二人だけだと確信している。
死は道戸家の中で、さきほどからずっと姿見の前に立ち、ご機嫌な様子で自らの身体をチェックしている。穂乃果の両親の会話を、きちんと耳に入れつつも。
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「……なんとかして紛れ込めないかしら」
死は学びつつある。初めて桜花の目の前に現れて以来、彼女──もう彼女と表現して差し支えない姿だろうから──は現実に留まり、生者の中の異物として存在してきた。黒い影だった彼女の瞳には、そのとき条理桜花しか映っておらず、その周囲に漂う世界など心底どうでも良かった。死の世界には条理桜花、即ち自らの表側、生に当たる彼しかなかったのだ。
けど、今は違う。
園田咲良の首を手に入れ、思考するのに意識のみならず脳も使い始めた。人間の姿に近づくにつれ、人間の振舞いというものを意識し始めた。生首と胸だけの姿を桜花に怯えられた経験もあって、人前で裸でい続けるということに抵抗感を抱き始めた。
人は服を着ている。
自分は人だ。
ならば、是非とも自分は服を着ていなければならない。可愛いのならなおよし。
そんな思考の末、彼女は衣服を手に入れることにした。幸いにも、大多数の人間は自分を認識しない。少なくともそういう風にすることはできる。彼女は全裸で誰にも見られずに通りを歩き、衣料品店に入り、下着──小瀬静葉の胸の大きさに合うブラジャー(可愛らしい)と、遠泉早紀の肢体にフィットするパンツ(キュートな柄)を頂き、身に着けた。そしてそのまま通りへと出て、今、考えている。
「なんとかして……桜花の学校に紛れ込めれば……」
学校にいる人間は、そのほとんどが制服なるものを着ている。自分と同じ性別の者達はそして、ひらひらとしたスカートと、真っ白なブラウス、そして今の季節は更にブレザーを着用している。
「どこにあるの……」
彼女は下着姿で未明ヶ丘市内を歩き回り、ついぞ未明ヶ丘高校の制服取り扱い店を発見した。
ブラウスに袖を通し、スカートのホックを留め、ブレザーを着る。
一人の女子高生が、未明ヶ丘高校の生徒が出来上がった。学籍簿には載っていない見た目だけの生徒ではあるけれど、確かに本人の意識としては、未明ヶ丘高校の一生徒となったのである。
53
「誰もいないじゃないのよ……」
未明ヶ丘高校の敷地内はガランとしていた。時折、紺色の作業服のようなものを着た男や、スラックスにシャツ、ネクタイといった格好の者とすれ違ったが、制服姿の生徒は一人もいなかった。当然だ。未明ヶ丘高校は今日、休校なのである。
条理桜花がいないと分かると、彼女は校内を散歩することにした。何となくである。人間の、制服姿の、女子。それがどのような行動をするのか、真似てみたのだ。
まずは、一年C組の教室。園田咲良の首を絞めて殺し、生首を貰った場所。
死は、条理桜花の席に座って数分ボーっとした後、その前の道戸穂乃果の席にも座った。穂乃果はここに座って勉強し、時折背後を振り返って桜花と会話する。楽し気にお喋りを行う。なんて羨ましいのだろう、と死は思った。その後は、屋上に上ってみたり、音楽室やら美術室を覗いてみたりしたあと、職員室へ死はやって来た。
「僕は……」
職員室内、いっぱいに並んだ大きな机の内の一台に、一人の男性が座り、項垂れていた。室内にはその男だけだった。
「僕は……」
項垂れているように見えた男は、机の上で本を読んでいるらしかった。死が近寄って眺めてみると、男はおもむろに本を閉じた。その本の題は『異邦人』だった。それがどんな話なのか、死は知らない。ムルソーという男の話であることを、彼女は知らない。
「僕は……」
男はずっと、『僕は』という一人称を呟いている。両の手で向かい合わせにし、輪っかのような、ろくろ回しの手の形のような、そんな状態のままで、後に言葉は何も続いていかない。その様は壊れたレコードのようであり、自らを失いつつ、もしくは端から持っていなかった者の失望の嘆きだった。
この人ワケ分かんないわ、と死が見つめていると、男は不意に立ち上がり、天を仰いで自嘲の笑みを浮かべ、
「ああ……『私のせいではないんです。』それはきっと──」
最後まで言葉を続けず、教室内から去って行った。
何あの人怖い、と死は思った。