夕陽ヶ丘高校前
メメント森手前広場公園からの帰り道にて、
「学校の前を通ってもいいかな」
そんなことを稲達が芙月に尋ねた。芙月はその問いを聞いて怪訝な表情を浮かべた後、合点がいったと手をポンと叩き、不機嫌そうな表情を浮かべた。
「あー、分かりました。女子高生が見たいんですね。いるのに目の前に」
「それは分かったとは言えないなあ」
稲達は笑う。苦笑が混じっていた。
「一応、母校だからね。眺めて過去に浸りたくなったのさ。私一人で校門の前に立つと不審者だが、姪であり在校生の理くんと共に立っているとそう不自然には見えない。差し詰め娘とその父親が散歩中に立ち寄った、ぐらいのものになるだろう」
「私を良いように利用するんですね……」
むすっと、芙月はジト目で稲達を見上げた。
「アハハ……協力してもらいたいだけだよ。イヤなら断ってくれていい」
そんな稲達の言葉に、「まあ断りませんけど」と芙月。最初から断るつもりはなかったのである。
そして二人は、夕陽ヶ丘高校の校門前まで歩いてきた次第となる。
門から見る敷地内に、出歩いている生徒の姿はなかった。直近の在校生の殺されるという事件もあり、部活動、委員会活動はともに全面中止となっていたのである。
だから、閑散としている。舗装された道を歩いた先に建つ校舎棟も、心なしか寂しげな佇まいとなっていた。外壁が古くなってくすんでしまっているのもそれに拍車をかけている。
「時計台は、まだあるのかい」
校舎を眺めていた稲達が、芙月に聞く。
「ありますよ。中庭なのでここからはちょっと見えません……って、知ってますよね、卒業生なんですから」
「ああ。懐かしいものだよ。大人になって母校を見つめ返すというのは。私はここに通っていたという記憶はあるのだが、卒業してしまったらもう、他人のようなよそよそしさを醸し始めて、境目ができてしまう。確かにこの門を通って毎日毎日退屈するほど見ていたのだがなぁ。寂しいものだ」
そう言う稲達は、遠い目をしていた。
「私にも、その寂しさは生まれるんでしょうか」
小さく、芙月がそのようにこぼした。
「生まれるだろうね……ただ、それは仕方のないことだ。誰もが通る道、というものだよ」
「はあ、なんだか、イヤです……」
「歳をとっていけばいくほど喪失は積み重なってくる。時間が流れれば、刻限が来た者の隣を通り過ぎる瞬間だってくるさ。何度も、何度もね」
「所長の話を聞いてると、生きるのがまるで苦痛みたいに聞こえてきます」
「ハハハ……確かにね、未来ある若者にこんなことを言うのは野暮だった。まあ勘違いしないでくれたまえよ、別れあれば出会いあり、だ。なにも人生は山積する喪失で出来ているのではない、出逢いもまた多々あるものだよ」
「もう。とってつけたように希望を見せちゃって」
芙月が笑い、稲達もまた、笑った。笑みの余韻が途切れると、稲達は再び、校舎を眺め上げた。その様は過去を懐かしむかのようであり、また、同時に寂寞とした思いを含んでいるようにも、芙月の眼には見えた。
寂しいのだろうか、と芙月は考える。母校で過ごした記憶が楽しく尊いものであったからこその寂寥を抱いているのか、それとももっと別の感情を……
「所長、夕陽ヶ丘高校での生活は楽しかったですか」
芙月は何とはなしに、そんなことを訊ねてみた。
「夕陽ヶ丘高校、か……楽しかったよ。良い友人に恵まれ、代えの効かない唯一無二の時間を過ごせた」
言葉の内容は前向きなのに、稲達の声色は悲しげであるように、芙月には思えた。稲達の視線は依然、校舎棟を向いている。方角的には中庭の方、時計台の方向だった。
「……出会いにもまた、良いものとそうでないものがある」
視線は時計台の方向を向けたまま、稲達がぼそりとそう言った。芙月は無言で、稲達が言葉を継ぐのを待った。風がひと際強く吹き抜けていった。稲達は無言のままだ。だから、芙月は自分から喋ることにした。
「良い出逢いは、そのまま良い人に会うことですよね。そうでない出遭いは……昨日の影のような得体の知れないものだったり、犯罪者との出遭いだったり、ですか」
「……まあ、そうだね。前者のみであれば良いのだが、往々にしてそうはいかないものだ」
芙月は、聞くことにした。この場面、母校を見上げ昔を懐かしむ稲達の口から出会いの良し悪しが出てきた、ということについて、芙月はひとつの推測をした。
高校に在学していた当時に。
なにか、稲達にとって悪い出会いがあったのではないか。そしてそれは、あの影に関係することではないのか。
「後者の事態が、あったんですか……校舎だけに」
少しボケてみたが、稲達は真剣な眼差しで芙月を一瞥し、また校舎を見始めたのみだった。芙月はなんだか死ぬほど恥ずかしくなった。ボケる場面じゃなかった。
「さあね、私には……もうずっと分かっていない。分からないまま、今に至ってしまった」
陽が傾き始めている。
遠くの方で、太陽が落ちていく。
街全体が、夕焼けの感傷に浸っていく。
「生きている者の義務は、やがて死ぬことだよ」
ふと、稲達はそう言い、更に言葉を継ぐ。視線は時計台を向いている。
「死んでいる者の義務とは、死んだままでいることだ」
芙月は、言葉を紡ぐ稲達の横顔を見上げた。夕陽が稲達の顔に当たっていた。
「死人というものは、死んでいなければならない」
口を引きつらせた稲達の顔は、笑みと呼ぶには多少歪んでいた。