先生が来た
「本当に平気なの?」
「平気だよ。もうなんともない」
視線はテーブルに、朝食が済んですべて片づけられたテーブルの上に向いている。今は湯呑があるだけである。二人分。俺と陽香の。食事は済み、歯磨きも終わり、こうしてくつろいでいる。
胸はもう痛まない。ノイズによって引き起こされただけの幻の痛みなだけだ。実際のところはナイフなんて突き立っていなければ傷もない。今の俺はなんともないという言葉が実に相応しい状態だ。……。
「ぽっくり逝ったりしないでよね。そんなことになったらその日にはもう私はあなたの後を追うから」
ギャン泣きしてたものだから、陽香の眼はまだ腫れている。泣き腫らした目で発されるその言葉は真実味があり、彼女なら本当にそうしてしまうんじゃないかという不安を産んだ。
「ハハハ……そこはなんとか、生きてくれ」
だからそう言う。もしも欠けることになろうとも、生きていてほしい。……ついさっきはなんともない状態に等しいと考え、陽香に向けても平気だと言った。
そもそもが、だ。ノイズで幻覚を見るのがおかしいんじゃないか。痛みを感じるのなら尚更に妙な事態なんじゃないか。あの痛みは現実味があった。大仰な言い方をすれば真実だった。莫大な熱を産み、死にゆく悪寒にまとわりつかれたのは、ただの幻とは思えない。死を経験した、と云ってしまえるほどには、あのときの俺は死んでいた。
「やだ。死ぬ」
にべもなく、陽香は首を横に振った。
「俺はお前が死ぬのイヤだよ」
「私を死なせないのなんて簡単よ、あなたが生きてればいいの。だから死なせるのも簡単、死ねばいいの」
お互いに素っ気ない応酬。
そこに、
「ねえ、桜利くん」
夕陽がやってきてそう言う。夕陽と舞は陽香に気を遣ったのか、リビングで二人、テレビを見ていた。
「窓の外、車が……」
リビングの窓から見える外の光景。門のところに、確かに車が停車していた。箱みたいにかくかくとした、そこそこ大きな車。ここ最近、ずっとお世話になり続けている車だ。
「霜月先生だわ」
夕陽が言う。
見覚えのある車から降りてきたのはやはり霜月先生だった。遠目で分かるほどの険しい表情を浮かべている。察しはすぐについた。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
「俺が出る」
そう言い、靴を履き、玄関の扉を開ける。
霜月先生が、いつものよれた白衣……ではなく、黒のスラックスにシャツ、ネクタイといった格好で立っていた。何処かの帰りなのだろうか。
「おはよう、久之木」
「おはようございます」
「いやあ、ハハハ……アポなし訪問で済まないね。僕が来た理由は……まあ、察しているだろう?」
「……はい」
困ったような笑みを、霜月先生は浮かべている。どう言ったものかなと悩む者の表情だった。彼はこれから生徒を説教しなければならないのだ。生徒とは俺で、説教の内容とは、出歩かないようにと言われているのに広場公園の敷地内に入り、廃墟まで行き、最後には一人死んでしまう結果となったそれについて、なのだろう。
「警察の方から話を聞いた。……近泉のことも」
「……すみません」
「久之木、君が反省すべきなのは軽率な行動に関してだけだ。近泉が亡くなった……殺されたのは、その当事者、殺人犯に全ての罪がある。生きていてよかったと僕は心から思っている。近泉の死については、何もできなかった無念と殺人犯への怒りが湧いている。端的に言えば、気持ちの整理がついていない、ということだよ、僕自身に関してもね。それは久之木、君もだろう」
「はい……」
霜月先生の言葉に返した俺の首肯。気持ちの整理がついていない。連続する異常事態に、少しずつ少しずつ、平常状態から思考がズレていっている感覚。このままズレていったら、自覚なしに気が狂うのだろうか。……ノイズが聞こえ、幻覚が見える人間を果たして平常と云えるのか。
「反省文の提出は、まあ必要になるだろうな。まあ、学校が始まってからの話となり、いつ再開するのかも未定だが」
「分かりました」
素直に頷き、神妙に答える。
「……うん。それなら僕はもう立ち去るが、くれぐれも出歩かないように──という常套句をまずは贈ろう」
そう言うと、霜月先生は口端を引きつらせた。たぶん笑ったのだろう。いつもとは違う、なんだかとても不器用な笑い方だったが。
「……感覚は、時として理性を凌駕する。太陽の光の眩しさに、目の前の異邦の者を撃ってしまったように」
「……え?」
「久之木、君に課せられた義務に向ける君自身の姿勢が、時として礼儀や常識──条理を踏み越えなければならない、踏みにじらなければならないと感じたのなら……僕はそれを止めずに置く」
「先生……?」
それは、今までとは違う色を持った言葉だった。
先生は教師として、常識ある大人として俺に言葉を吐いていた。けど今のはまるで……背中を押しているかのような言葉だった。
「アッハッハ、教師として許されざる言葉だった、忘れてくれ」
たった今自らが発した言葉を打ち消すかのように霜月先生は笑う。笑い、強引に押し流した。
「それじゃあ、また。あんまりいると、駐禁をとられてしまうかもしれないからね」
「は、はい。また、学校で……」
踵を返し歩み出そうとして、おもむろにぴたりと霜月先生は立ち止まった。
「──ああ、そうだ。僕は最近、また読書にはまっているんだよ」
「読書、ですか」
先生は振り返らない。
「ああ……特に好きな作家がいてね、接点なんてもちろん全くないけれど、少しだけ親近感があるんだ。まあ、ごくごく個人的なことから、なんだが」
「はあ……」
先生の言わんとすることが掴めなかった。本当に、本当に何の意味合いも持たない日常会話なのだろうか……いいや、そうは思えない。意味のない会話を、なぜ今する必要があるんだ。
「その方の名前が関わる著書を読み漁ったものだ。そしてその中に一文、やけに印象に残った言葉がある」
「それは、どんな」
「クレド・クイア・アブスルドゥム」
くれどくいああぶするどぅむ。思考の中に反復させるも、俺の脳では意味を弾き出してくれなかった。分からないと、俺は首を振り、向こう側に向けたままの、表情の分からない霜月先生の次の言葉を待った。
「ばかげていればこそ信じる、という意味なのだがな」
馬鹿げていればこそ……、
「原文はもっと宗教的な意味を含むが、ここでは文字の見た通りだけでものを言おうか」
「……」
言葉の続きを俺は待っている。
「そんなことはありえないのだと前提するが、理性ではとても説明がつかない現実が目の前にあったとしよう。なぜ、このような──どうして、こんなことに……そんな事態に、直面したとしようか。そのとき、必ず今まで信じていた条理が崩壊する。筋道が狂うんだ。すると、どうなるか。こうはならないだろうか。こんな疑問を抱かないだろうか」
理性では説明のつかない現実。
なぜ、も。どうして、も。なにも分からない事態との直面。
すると、どうなるか……すると、どうなったか。
「──いったい僕は、なにを信じればいい?」
俺は何を信じたか──俺の正しさを、どのようにして信じようとしたか。雨に濡れてなお微笑む夕陽の表情が想い起される。それはすぐに、ケラケラと嗤う黒い影に塗りつぶされた。
「答えは簡単だ──見たままを信じればいい。目の前の現実が現実であるということは、馬鹿々々しさが保証してくれる。引き起こされた事態、理性が許さない現実問題にはこういう態度でいればいい──ああこれは確かに現実だ、なにせ不条理なのだから」
そう言う先生の語調には愉快さが込められていた。
「いつか果たさなければならないことを義務というなら、果たさない姿勢を崩さずそれでいて果たそうと振舞うのは不条理となるだろう。そしてその為に今の自分が佇む此処が現実なのだと確信できるんだ──ハハハッ」
先生の視線は向こう側だ。そしてそのまま振り返らず、先生は歩き出した。
霜月先生の後姿を俺は呆然と見送るしかなかった。エンジンのかけられた車が動き去って行くのを見届けるほかなかった。
確かに、先生は俺の背中を押そうとしていた。
けれど。
押された先には、何があるのだろうか。それは俺にとって良いことか、それとも悪いことなのか。
それに。
義務……とは、なんだ。
それは必ず果たさなければならないことなのか。
果たさない姿勢を崩さずにいられるものなのか。
義務という単語に含まれる意味が空っぽに見えた。空っぽの箱を覗き込み、そこに何か重要な意味があるのだと血眼になって探しているような気分だ。いや……そう見えただけ、だったのかもしれない。そう見たかっただけだったのかもしれない。空っぽに見えているのは都合の良い幻で、そこにはもう既にはっきりとした"義務"が入っている……ただ、俺自身が見たがらないだけで。