『モルスの初恋』
44
一つの、場面。
放課後、夕暮れ、一人以外は誰もいない教室。
見ているのは、窓の外から夕陽だけ。
一人の男子生徒の机の前に、その主ではない女子生徒が立っていた。
机の中に恋文を、とは我ながら古風だと少女は一人苦笑する。
少女の名前は──遠泉早紀。女子バレーボール部に所属する、スポーツ少女だ。部活までの空き時間、人の捌けた一年C組の教室内にいる理由とは、つまりはそれである。
好きな男の子の机にこっそりとラブレターを投函する、というそんな面映ゆい動機でここにいる。ここに至るまでに、たくさんの後悔が生じた。ラブレターなんてものを書こうと考えた後悔、実際に書いてしまった後悔、学校に持ってきた後悔、机に入れようとしている後悔、好きになった後悔、親友の好きな相手を好きになったという後悔──そして、机に入れてしまったという後悔。後悔塗れの行動の中に、けれども微かに期待があった。もしかして、という期待だ。そもそも期待が無ければ行動も起こさないだろうから、しごく当然のことではあろうが。
そして場面は次の日に移る。
体育館の裏に、一人の少年がいた。机の中に入っていた手紙で呼び出しを喰らった男子生徒だ。誰からなのかもわからず困惑しつつもしっかりとやってきたところに、彼の真面目さが窺える。
「よ、よお。条理……」
片手を挙げつつ、何食わぬ顔を装い失敗しつつ早紀が現われる。
此処は一つの舞台だ。
一人の少女が、一人の少年へ告白するという、なんとも甘酸っぱいシーンを演じるための舞台。役者は二人。恋する者とされる者。デバガメする野暮な者は周囲にはいない。
「遠泉……? まさかお前が、これを」
条理──条理桜花は、一枚の便せんを掲げる。『あなたのことが好きです。今日の昼休みに体育館裏』とだけ書かれたぶっきらぼうなラブレターを早紀に見せる。早紀は奇声をあげてその場から逃げ出したい気分になった。物凄く恥ずかしくなったのである。
「そ、そうだよ──わ、わたしゃぁお前が好きなんだぜ」
ちょっと妙な言葉遣いになりつつも、早紀はしっかりと告白した。逃げたりなどはしなかった。桜花は早紀の告白に──「ああ、実は俺もだ」と頷いた。斯くしてここに、一組のカップルが誕生した。皆さま皆さま、彼と彼女の前途に多大なる祝福の拍手を────!
──以上の話は虚構である。
せめて死ぬ時ぐらいは幸せな夢を見ていてほしいものだ。
憐れみ抱き、『私』は見ていた。絞め殺される彼女の姿をね。
「ぎ」
ぎ。ぎ!
虚構の中ではあんなに精一杯の告白台詞を吐いたのに、現実は、『ぎ』である。
そんな台詞とすら呼べない一文字は、遠泉早紀が首を絞め殺された際に出てきた最期の言葉だった。
45
時間は少々遡る。
早紀は家にたどり着き、今更のように鞄の不在に気付いた。どうしよっかなー、と考えたものの、結局は取りに行くことに決めた。少し行って鞄を取って、さっさと帰ってくるつもりだったのである。元々早紀は未明ヶ丘の森の周辺をランニングコースにしているため、走り慣れていた。
「ちょっと行ってくるかな……条理のやつも、忘れてるだろうし」
携帯を取り出し、しばし画面を見つめた後、早紀はそれをベッドの上に放ってしまった。桜花に電話をしようとしたが、考えてみれば桜花と通話したことは片手で数えるほどもない。流れで連絡先を交換し、それだけである。メッセージもまた同様だ。たかだか忘れ物ひとつ、連絡を入れるまでもないな、とそう早紀は自分を納得させ、桜花と連絡を取らない理由にした。
「……ま、持って行ってやるのもアリだし」
そんなことを早紀は考えた。自分がさっと鞄を取りに行き、二人分の鞄を取って、その足で桜花の家まで向かい、渡す。これで条理桜花の家を訪ねる口実ができたというものである。
早紀は、桜花の家の場所を知っていた。穂乃果の家の隣だからだ。
そして早紀は、我が家を出て、また広場の楠へと走って行った。
桜花が電話をかける少し前のことだった。
(あれは……)
楠の根元に佇む影を見た早紀の最初の反応は、沈黙だった。
理解を外れた存在を目の当たりにしたショックで口をつぐんだ──訳ではなく、冷静な判断を直感的に頭が下した故の、束の間の沈黙だった。
見た瞬間、早紀は理解したのである。
こいつが人殺しの犯人だ、と。
理解したとて、さっさと逃げれば良かったものを。
46
つかつかと早紀は影に歩み寄り、無謀にも口を開け言葉をかけた。
「園田……じゃねえな。誰だよお前」
声は怒りに満ち満ちていた。目の前の人殺しに対する怒りももちろんあっただろうが、大部分は自らの恐怖を塗りつぶす為の怒りだった。桜花とここを訪れた時にも見た、あの悍ましきにあまりある者と今度は一人で対面してしまったのものだから。
「あなたの身体をちょうだい」
園田咲良の顔をした死は、そう返した。
「きっもちわりい見た目しやがって。お前が園田と小瀬と……真理先輩を殺したんだろ」
暴言である。死に悲しみを与えるに十分すぎる言葉選びだが、なにぶん発する者が者である。条理桜花の口から出たならば、確かに死は悲しんだのであろうが。あと真理先輩ってほんとにだぁれ? 殺した覚えの無いお方。
「あなたの身体、手、腕、脚、とてもキレイ。だからちょうだい」
小瀬静葉の胸をした死は、そう返した。
「ちっ。お話にならねえな……携帯持ってくりゃ良かった。カメラで撮って、警察に持って行くのに……」
会話のキャッチボールにならず、こちらがボールを投げる度にファールを打ち返してくる死に、早紀は舌打ちし、早くその場を離れようと考えた。会話にはならないが、話している内容は物騒だったからだ。さっさと逃げるべき、とそう判断したのである。
そろりと早紀は楠の根元に近寄り、鞄を二つ、手に持った。
「じゃあ、殺すわね」
死の両腕があっという間に伸びてきて、早紀の首にまとわりついた。
そして場面は──「ぎ」に戻る。