妙な名前の森
もうすぐ。
もうすぐもうすぐもうすぐだ。
あと少しで、読み終わる。半分を切り、四分の三まで読んだ。よし。よしよし。
──と、そこで。
机の上に置いていたスマホが鳴った。メッセージを受信したようである。
なんでこんなときに。鬱陶しいな。誰だ。
舌打ちし、スマホを手に取り画面を見る。差出人は、『諏訪玲那』……玲那からだった。
「で、え、と、し、よ……」
メッセージの文章を一文字ずつ読み上げる。
デートしよ、というひとことだけだった。ご丁寧にハートマークまで添えられている。
「……」
手に持っている本にスピンを挟み込み、机の上にそっと置いた。
◇
時刻は昼過ぎ。
夕暮れはまだ先だ。
俺たちはメメント森の手前にある広場にいた。特にめぼしいものもない、いたってごく普通のだだっ広い公園である。遠くで遊ぶ少年とそれを見守る親達が豆粒のように見えている。後は散歩中らしい人々がのんびりゆったりと歩いているだけ。なにもおかしなものはなく、不自然たるものは何一つない。なんと平和な休日の午後なのだろう。
一本だけ妙に大きな楠の木には眉唾なオカルト話があるが──それはまあ、良いだろう。事実に尾ひれがついただけの、つまらない話だ。
晴れやかな空のもと、ちょうど良い涼しさの風が吹いている。冬とはいえども、昼間は暖かなものだった。
「ねえ」
袖を引っ張られた。
俺は一人でここにきたわけじゃない。
「あの楠が一本だけ大きいのって、何でか知ってる?」
隣で試すように笑みを浮かべそんな問いかけをしている玲那と来たのだ。『デートしよ♥』というスパムメールの件名みたいな彼女のメッセージに同意し、学校の前で待ち合わせをし、通りの方で軽く昼食を摂り、ここまで歩いてやってきた。傍らを歩く彼女は会った時からにこやかで、機嫌がすこぶるよろしいらしかった。理由は聞いていない。
「人が死んでたからだろ。人が死んで、背をもたれかけていて、血を吸ったからあの楠の木だけあんなに大きくなった。元々楠ってでかいのに、それよりもでかいからなぁ」
「なんだ、知ってたんだ」
つまんない、とばかりに玲那は口を尖らせた。
「学校の中じゃあ、割と有名な話だからな」
「へー。ま、私も学校のお友達から聞いたんだけどさ。最初聞いたときはびっくりしたもんだけどねー。そんな物騒な話があるんだ、って」
そしてもう興味はなくなったのか、玲那は曰くつきの楠から視線を外した。外された後の視線は俺に向けられている。
「メメント森って、なんでメメント森って言うんだろうね」
「……? メメント森だからだろ」
「アハハ、そだね。それじゃクノキくん、アンタはさ、この街好き?」
そんなことを聞いてくる。
「……好きかは分からない。嫌いじゃないんだろうけど」
生まれてこの方、ずっとこの街──夕陽ヶ丘市に住んでいる。隣のより大きな月ヶ峰市に電車に乗って遊びに行くことも多々あるけれど、最後はいつもこの街に帰ってきている。
見慣れた街。住み慣れた街……うん、嫌いではない。好きと思ったことはないが、わざわざ思うまでもなかったことだからなのだろうな。
「この街ってさー、広いことは広いんだけど──なーんか狭く感じない? 私たちの生活圏は西側に偏ってるでしょ、月ヶ峰も西の方だし、東側とあんまり縁がないからかなーっとも思うのよねぇ」
「確かにな。東側ってあんまり行く機会がないや」
「縁がないのね」
そう、玲那が笑う。
「そんな中、アンタは私と出会ったのよ。袖振り合うも多生の縁って云うのに、私とぶつかってパンツまで見た。きっととてつもない因縁があったに違いない」
玲那との最初の出会い。
パンをくわえた玲那にタックルされ、パンツが見えた──そんな、マンガみたいな出会い方。
それは二、三か月にも満たないほどの過去でしかないのに、なんだかとても昔の話のように思える。
「あれさ、お前の方からぶつかってきたよな」
「そーだっけー? 忘れちゃった」
どうでもいいことだと、玲那は無関心に言い捨てた。
「同じ街の中でも、九割九分ぐらいは縁がない人たちなんだよね。一生、関わることのない人たち。そう考えると、こうしてアンタと会ったり、クラスのお友達に会ったりするのって、それ自体が運命の出会いみたいにも思えてくる。一期一会。出会いは大切に。日ならず来る別れの為に」
歌うように玲那は言う。にこやかなものだ。
「それ、で」
くるりと俺に向き直り、玲那はやはり笑みを継続させたまま、
「モルスの初恋は、もう、読み終わりそう?」
そう訊ねた。
「……ああ。もうすぐだ」
だから俺は、そう答えた。
「そっか。そっか。残酷な話でしょ? 死が一人の人間を好きになったばかりに、いろーんな人たちを殺していくの。そこには悪意なんてあんまりないのよ、ただ自分の初恋を叶えたいだけなの」
「その下地に、前にこの街で起こった連続殺人事件を敷いている」
「うん。そう。水代永命はどうして、そんな話を……非難を受けるような小説を創ろうとしてしまったのかな。本人に会ったらクノキくん、聞いてみてよ」
「この街に住んでるのか?」
「ん、分かんない」
分かんないとのことである。
「ま、小説書くのなんて、お金の為か、ひいては自分の為か──それとも誰かの為か。そんなものだよねぇ」
玲那は「どーでもいーやー」と言うと、俺のところへやってきて、腕を掴んだ。
「読み終わったら真っ先に私に教えてね」
そして、そんなことを言ったのである。
当然、俺はその言葉に頷いた。