転入生が来た
朝食は、ごく普通の白米ご飯と豆腐のみそ汁、それにほんのり甘い玉子焼きとウィンナーだった。よかった、形容しがたい肉の塊とかが並んでなくて。朝からスプラッタホラーな目になんか遭いたくない。ゴアゴアした日常なんて送りたくないものな。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、おにーちゃん、おねーちゃん!」
「舞、きちんと鍵は閉めて行くんだぞ」
「分かってるー」
登校時間のズレのためか、舞は俺たちよりも少し遅い時間に家を出るらしい。彼女の登校先は、俺の家がある住宅街の中にある朝陽ヶ丘市立朝陽ヶ丘小学校だ。舞の、久之木舞の年齢は十二歳。俺や陽香よりも四つ年下。しっかり者。真面目。優等生。秀才。さすがは俺の妹。いもうとだ。いもうと……
「……やっぱり、慣れない?」
少しだけ眉尻を下げ、陽香がそんなことを言った。
「ああ、うん。正直、ね」
「早く慣れるといいわね、今のままだと、あなたも……舞ちゃんもつらいでしょうから」
「……そうだな。努力する」
久之木舞は、どう見ても一人の人間だ。久之木桜利の妹という役柄を持った、人間なのだ。
違和感を覚えるのは仕方ないとしても、異形に接するような態度を続けるのは、やはり彼女は傷ついてしまうことだろう。傷つけることは避けたい。そのためには俺が彼女の存在を自然なままで受け容れるように……。
「……ふふ」
「……どうした?」
考え込む俺の横顔を見、陽香は微笑んでいる。
「オーリのそういうところ、好きだよ」
「……どういうところ?」
「どんなことに対しても真面目に悩むところ」
「俺、そんなに悩んでるのか」
「うん。悩んでる。オーリは優しいから、真面目に悩んじゃってる。あなたはどんなにおかしなものに対しても、それが同じように思考する生き物なら完全な拒絶ができない人なのね。どこかで自分なりの落としどころを見つけて受け容れようとする。相手を想って、自分が悩んじゃう」
「そこまで大層な人間かな、俺」
「そーね、私も少し褒めすぎた感があるかなって今思ってるわ」
「思ってるのかよっ」
「あははっ」
あっけらかんと陽香は言い、朗らかに笑った。彼女らしい、太陽のような笑みだ。
それから俺たちは二人、朝陽ヶ丘高校へと登校した。
途中、パンをくわえた一乃下夕陽はいなかった。
◇
「おっはよーオーちゃぁぁん? 探したぜっぇぁマイベストフルルェェェェンドゥア!」
教室に入ってすぐ、モヒカンが迫ってきた。ドヤァ、と右手にひとつのストラップを持っている。俺の方へと銃を構えた暑そうな表情の男……太陽の精だ。
「……まさか、プレミアムか」
「おうぜ! プレミアムぜぇ!」
テンション爆上げ状態のレモンが、太陽の精の背中の部分を押した。すると、
────『人間はどんなことにも慣れてしまうものなのだ』
少しノイズがかった、男の声が太陽の精から聞こえた。淡々と、まるで主体なき機械のような声音だ。
「スピーカー内蔵でよお、なんかボタン押すと今みたいにセリフを発するんだぜぇ!? すっげえだろ、んっぱねえだるるお!?」
「あ、ああ……」
すごさはよく分からないが、レモンが実に楽しそうなのでよしとしよう。
「これがさ、数十パティーンのセリフがあって、ときおりレアなセリフもあるって話でぜ! あれ、このくだり前にも言ったような気がするぜ!? まあいいか!」
と、もう一度レモンが背中の部分を押す。
────『畜生、くたばり損い奴』
先ほどとは違う、老人の嗄れ声。くたばりぞこないめ、とは。なかなか刺さる。
「ほら出た! 出たよおおぅ! レアなやつ! 昨日夜中にとーちゃんのパソコンでこっそり検索したんだけどよぉ、これ、言ってる人間が違うんだってな! サラマノってえご老人のお台詞でございますらしいぜぇ!」
「え、モデルがあるのか?」
「おう。カ……えっと、あ、或辺留……カミ、上湯? そうそう、或辺留上湯って作家の『ホージン』っていう作品だったと思う。付属の説明書にそう書いてあったからな。それに出てくる、なんつったかな、ムル……ムール貝? いや違うな、なんとかソーだった……だめだ、チェインソーしか出てこねぇ……あ、いやそうか、たしか……ああ! ジグソウだ! ジグソウの台詞がだいたいの元になってるってさ。なんでも、無許可らしいぜ。やべーな朝陽ヶ丘市」
なにそれ……なにそれ?
「何もかもが違うよ、三択くん」
「おお? なんだぁ久山、俺間違ってるべ?」
そこに立っていたのは、久山英明。眼鏡着用系男子で、クラス委員長を務め、図書委員に所属している。
「うん、ほとんど全部。カミュの『異邦人』、そしてムルソー。失礼にも程があるよ」
「マジかよ……申し訳ねえわ……」
「なんでサラマノ老人だけ憶えてるのさ」
「なんでだろう、不思議……」
ううむ、と首を傾げるレモン。久山はそして俺の方を向くと、にこりと笑った。
「あ、それと久之木くん。呼ばれてるよ」
そう、教室の入り口に手を向ける。ヂ。
見ると、そこには黒いヒトガタの影がいた。
「は────?」
ぞわりと背筋に悪寒が走る。
ずきりと、後頭部に一瞬の痛みが生じた。ヂヂ。
だが、次の瞬間にはもう、影は消えていた。痛みは消えていた。
その代わり、
「おはよう、へん……久之木桜利くん」
一乃下夕陽が、そこにいた。
……へん? へん、ってなんだ?
「今日は、唐突に下着の色を当ててこようとしないのね」
「は……?」
まさか、へんって変態のことか? 変態のことか?
「ヘンリー、さん」
違った。ヘンリーか。そっちかー。
「って違う! 俺は変態でもヘンリーでもない!」
そこは否定しておかなければいけない。
変態やヘンリーで定着だなんてたまったもんじゃない。
「ふふふ。また、後でね。久之木くん」
ふわりと身を翻し、一乃下夕陽は廊下を去っていった。何しに来たんだ。いやほんとに何しに来たんだ。俺を変態扱いしにきただけなのか。
「下着ってオーちゃんおまっ……相手女子なのに、しかもめっちゃキレーな子なんに……やべえわ、オーちゃんのやべえところ垣間見ちまったわどーしよ、幼馴染が道を誤ろうとしている……」
「違うんだレモン。下着云々は、のっぴきならない事情があった」
「マジでか?」
「マジだよ」
「でよぉ、オーちゃん、マジメなところ……何色だった?」
「ピンク」
「ぱねえ……見た目クールなのに……」
ヘンリーだの下着だのはさておいて。
あの黒い影、あの黒いヒトガタ。一乃下夕陽。
嫌な予感、とても嫌な予感がする。