メメント森手前広場
世間が休日と呼ぶ、そんなある日のことだった。
昼と夕暮れのちょうど中間の時間帯、おやつを口にするに実に相応しいとされる時刻から五、六分ほど過ぎた頃、稲達はメメント森の手前広場の四阿に腰かけていた。視線の先には、楠を見上げる一人の少女──芙月の姿がある。
散歩である。
伯父と姪の微笑ましい──少なくとも稲達的にはそうなっている──憩いの時間。
こうなった経緯としては、事務所内でとある浮気調査についての経過報告をまとめていた稲達に、唐突に「散歩がしたいです」とそんなことを姪が言い、稲達はそれに対し「一人で出歩くのは危険だよ」との常識的な返事をし、大まかに出来上がった経過報告にざっくりと一、二秒ほど目を通し、文書の保存を行い、「ちょうどキリが良いところだ。私がついて行こうか」と言い足し笑ったというものがある。当の芙月は「お仕事は大丈夫なんですか。私と散歩したことによる時間のロスで所長の仕事が締め切りをオーバーして信用を失い仕事が無くなってしまったりなどは……」と気遣う発言。言い方はアレだが、芙月としては本心から気遣っている。それはそれとして稲達と共に散歩をしたいとも考えてはいはする。そんな乙女真っ盛りの芙月へ「ご心配どうも」と稲達は姪の気遣いに笑んだ。
そうして、今。
稲達はよっこらせと四阿の古びた木製のベンチに腰を下ろし、気の向くまま、猫のようにうろうろする姪を保護者目線で眺めていた。楠の木陰には少年たちが座ってなにかゲーム機を一心不乱に操作し、その傍で親と思わしきご婦人方が楽しそうに会話する。老夫婦であろう一組がのんびりと歩き、笑みを携えていた。
メメント森の中へ入っていく小路は、入り口にカラーコーンが置かれ黄色いテープで仕切られている。
先日の殺人事件の為だろうな、そう稲達は一人納得した。
「しょちょー!」
叫び声。呼ばれた。
見ると、ひときわ大きな楠の根元で、芙月が手を振っている。なにかを見つけたのだろうか、と稲達は立ちあがり、ゆっくりと姪のもとへ歩んだ。
「あれ、顔に見えませんか。苦しげなお顔です。ムンクの叫びみたいですっ」
楠の幹の上部を指し示し、興奮した様子で芙月が言う。
稲達が見上げると、なるほど確かに、幹のシワ、と言うのだろうか。そんな窪みが三つ並び、苦悶に目を見開き、口を歪ませている──ように、見える。
「最初見たときは『なにあれ!?』っとびっくりしましたが……あれですよね、あの……なんて言いましたっけ、ケセラセラ現象……じゃなくて、あの、シ……シクラメン……じゃなくてぇっ……出てきません、この辺りまで来てる気はするのですが」
悲しげな表情で、芙月は『この辺り』である自らのこめかみ辺りを指した。だいぶ出てきている。口を過ぎてしまっているようである。
「自らの若々しい頭脳を信じ、もう少し粘ってみると良い。自力で思い出すと、記憶にもより深く刻まれる」
稲達はエールを送った。
芙月はううん、と唸った。
「し……しみゅ。ああ、シミュラクラ! シミュラクラ現象です! 思い出せました私っ」
「よくやった」
稲達は相好を崩し、姪を褒める。芙月はどやぁと自慢げな表情を浮かべた。嬉しかったのである。
「しかしケセラセラ現象ってなんなんでしょうね、どうして私はそんな間違った覚え方をしていたのでしょうか……」
「なるようになった結果だろう。理くんの知識の刻み込みが不十分だった、というね。だが思い出せたのならもう忘れることはない」
思い出せたのなら。
忘れることはない。
自分で口にした言葉であるのに、稲達はいやに印象に残った。思い出す。忘れる。どちらも記憶に関係する動詞だ。なにかを思い出すということは、それまで忘れていたということなのである。忘れるような何かがあったのか、そう稲達は考えるものの、そもそもが忘れているのだから何も浮かばなかった。
「記憶力鍛えます……忘れっぽいのは探偵として致命的な気がしますし」
もしや、姪は本当に探偵を目指しているのだろうか。
稲達はそう考え、心中で苦笑した。本当にその道を目指し始めようとしたなら、真っ先に反対するのは彼女の両親、特に母親なのだろうな、とも考えた。我が子に不安定な道を進ませようとする親が何処にいよう。子どもにとっては反対してくる親への対応如何により描いた夢への真剣さと情熱が如実に外部へ示される、夢に対する自らの意欲の再確認と主張の場となるのだろうが……実際のところは、芙月が探偵になりたいと言い始めたら稲達自身も反対の立場をとるつもりだった。現実の探偵には、創作の中の彼らのような華やかさはないのだから。
「しかし……なんでこの木だけ周りのよりも大きいんでしょうか」
不思議そうに口にする芙月に、稲達はどのような答えを返そうか思考を巡らせた。
近くで見ても遠めに見ても、今稲達と芙月の目の前にあるこの楠だけ大きさが違うと一目で分かる。幹の太さも、広がった枝葉の膨らみ方も違うのだ。こうである、という明確な答えは稲達自身知らない。だが、こうではないかという推測……いいや、憶測の答えは持ち合わせている。けれどそれは姪に言うべきことでは……ない。
──この木の根元で、とある女子生徒が死んでいた。
そんなこと、知らずとも良いのだ。稲達は過去を思い返し、先日にここを訪れた時のあの幻を脳裏に浮かべた。『久しぶり』という挨拶の電話も、同様に。
「ずっと前、この根元で女子高生の死体が持たれかかっていて、その血と肉をこの木が吸い上げた」
小さく、芙月がそんなことを言う。
「……知っていたのか」
稲達が問う。
すると芙月は、「学校の先生が言ってたんです」と一言。そしてすぐに慌てた様子で、
「いえ、血と肉を吸い上げたとかは言ってませんよ? 霜月先生が言ってたのはここに女子生徒が死んでいた、ということだけです。この木に関するオカルト話は学校の生徒の間での噂話です」
「なるほどな……尾鰭がついたか」
稲達は黙り込み、芙月も何か言葉を発するわけでもない。
一時的な沈黙の中、稲達は目の前の楠を見ていた。現在の光景を見つつ、それでいて過去の光景もまた、見ていた。記憶に深く刻まれた、あの──"中途半端さ"を、思い返していた。