表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
144/265

『モルスの初恋』

     37


 足もとが悪い。それに暗すぎる。

 一歩一歩踏み進むごとに木床がギシギシと喘ぐ。慎重に、ゆっくりと、桜花は足を歩んでいた。過去の経験からの学習である。いつ足を踏み抜くかも分からず、それで転んでしまってはあまりにお間抜けだ。

「くっらいなぁ」

 早紀が軽やかな足取りで、とんとんとロビーを歩いていく。しばしば振り返り、桜花の足元をライトで照らし出す。床の上にはガラス片に木の枝、枯葉、砂利、泥土がふんだんにバラまかれている。桜花が一歩動くたびにじゃりと靴底をこすった。

 早紀のライトが廃墟内を動き回る。彼女は何かを探してでもいるかのようだった。

「お、ちょっとこの部屋入ってみようぜ」

 そう言うと、桜花の返事を聞かずに早紀は扉を開け、中に入った。慌てて桜花が後をついて行く。

「おぉ……やっぱ外に比べると若干暖かいな。そんでベッドとかってそのまんまなんだ。置いてかれてくのかね。安いものでもないだろーに」

 そこは一室だった。行為の部屋。一般的なホテルの一室と同じく、ベッドと机、椅子がある。あとはテレビ置きだったと思わしき台に、別の扉の向こうには、汚れた浴槽と水栓がある浴室、放置された便器のあるトイレへと続いていた。部屋の全てが枯葉に枝、泥土にゴミ塗れだ。

 ベッドはマットレスとシーツが残っていた。年月の経過により汚れ、くたびれ、カビが生えてしまっている。

「は、はー……こーいうところで、その、シてたんだな……ご利用のお客様方は……」

 早紀は顎に手を当て感心するように言う。

「な、なあ──条理」

「うん?」

「お前って……し、シたことはあるのかよ……?」

 したこと。

 一瞬、桜花は早紀からされた質問の意味と言葉の内容が分からなかった。ただ、早紀の表情、微かに紅潮しているようにみえる頬と気まずそうに泳ぐ瞳ともじもじとした所作から、想像がついた。

「……ない」

 学校の同級生、しかも異性との、そんな会話。

 この場所。今は廃墟だが、元はそういう場所だったこの建物の中で。この流れは、どのような言葉に帰結するのか。予感はあった。

「へ、へー……意外だ、やっぱ。まあ私も、」

 この空間を覆う、色。雰囲気の色。

「処女、なんだけどさ」

 それが変わってしまったような感覚が今、桜花には感じた。

 暗い部屋。カビたベッド。脆い木床。音を殺して覗き込む黒い影。人の来ない場所。無人の廃墟。森の中。夜。男女。死。

「……」

 桜花の眼前で制服のボタンを外す目の前の彼女。

 遠泉早紀は、現在、精神的に参っていた。そんなところに一人の男子と人気のない暗がりに来た。何かを想う相手でもなければ、このような事態にはならなかったのだろう。

「なあ」

 あっという間に制服を脱いでしまい、机の上に置いた。早紀の上半身は下着のみとなった。冬だというのに寒々しい姿である。すらりと伸びた手足は暗がりに蠢き、小ぶりな胸を下着が覆う。背中に手を回し、桜花を直視せず、ぽつりと早紀が問う。

「……なに?」

 桜花は、言葉は冷静でいられた。だが内心は早鐘である。早紀の行動は突然すぎて、まだ頭が事態に追いつけていなかった。ホックを外し終わったのか、ぱさりと胸が露わになった。


「お前のさ、机の中に前、手紙が入っていたじゃん?」


 手紙。机の中に入っていた手紙。

 桜花は考えをめぐらす。思考は記憶の中から過去を拾い上げる。

 机の中。手紙──恋文、と思わしき紙切れ。差出人がついぞ現れなかったラブレター。


「あれって、実は──私だったんだ」


 恋文。私。

 桜花は目を丸くした。驚きによるものだった。

 スカートのホックに、そうして早紀は手を付けた。


     38


 死は、部屋の入り口の影でひっそりと彼らの会話を聞いていた。

 早紀、なる少女が服を脱ぎ始めた。廃墟とはいえラブホテルだ、場の雰囲気に中てられでもしたのだろう。気になっていた男子と一緒だったために。

 服を脱ぎ、好意が高じて行為に及ぼうとする彼女の姿を、死は凝視していた。苛立ちながらも、見ていた。上着が脱がれ、制服のシャツも脱いでいる。


 すらりと伸びた白い手。今の死には無いものだ。欲しい。

 しなやかで綺麗なくびれを持った胴体。今の死には無いものだ。欲しい欲しい。

 小ぶりな胸。……あれは要らない。もう立派なものを持っている。

 余計な脂肪のない、けれど肉付きは良い脚。今の死には無いものだ。欲しい欲しい欲しい。


 あれがあれば、身体が出来上がる。完成する。

 あの子の身体があれば……。


     39


「最初から実らない恋だったのさ。だってお前には穂乃果がいた。傍から見てると、お前と穂乃果は本当にお似合いだ。同性から見てもキレイな女の子に、異性から見るとカッコイイ男の子。お似合いにならないはずがない」

 桜花が言葉を失っている間に、早紀は口早に続ける。

「そして──穂乃果はお前のことが大好きだ。もう無理だな、と思ったよ。私じゃ無理だって」

 一歩、一歩、早紀は桜花に近づく。入り口を背に、桜花は壁際に追い詰められていく。

「ま、待て遠泉。お前は今いっぱいいっぱいなんだ」

「無理だって思ってたのに、いざ環境が揃って目の前にお前がいたら、こんな行動をしてしまう。辻褄が合わねえもん。つくづく不条理な思考をするもんだな、人ってさ。アハハ、これは私に限った話なだけかもしれないのに」

 自暴自棄に、捨て鉢に。

 早紀は紅潮する頬に、震える身体で目に涙すら溜めつつ、自らの理性ですら律しきれていない動作を行っていた。感情のみが先んじてしまっていた。仮にこうして服を脱ぎ裸体を見せたところで、そこには困惑しか生まれないことなど分かっていただろうに、なのにこのような現状だ。

「殺された真理先輩って、実は年上の彼氏がいたって噂がたっててさ」

 唐突な佐藤真理の話に、桜花はまたもや戸惑う。眼前の早紀の思考が混乱しているのは瞭然だった。まずは落ち着かせないといけないのだ。しかしどうやって?

 その桜花の選択肢の中で真っ先に目の前の少女の望むとおりに情事を行う、というものが浮かび上がらないだけ、つくづく遠泉早紀は不運で気の毒な少女である。

「それが誰かは教えてくれなかったけど、シた話とかは、結構部活内のメンバーにもさ、話してくれたりしたんだ。真っ先に処女じゃなくなったのって先輩だったし、私らも興味はあったし……気持ちよかったって聞いて、そりゃ興味は湧いた。好きな人とするのってどんな気分になるんだろって思った」

 桜花は絶句した。

 パンツ一枚で捲し立てる早紀──の向こう。

 そろりと開かれた扉の隙間から覗き込む、二つの瞳。

 

 ()()()()()()()()()()()

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ