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廃墟の中に居た

 足もとが悪い。それに暗すぎる。

 一歩一歩踏み進むごとに木床がギシギシと喘ぐ。慎重に、ゆっくりと、俺は足を歩めていた。いつ足を踏み抜くかも分からず、それで転んでしまってはあまりにお間抜けだ。


「くっらいなぁ……」


 近泉は軽やかな足取りで、とんとんとロビーを歩いていく。さすがスポーツやってるだけある。振り返り、彼女が俺の足元を照らしてくれる。床の上にはガラス片に木の枝、枯葉、砂利、泥土がふんだんにバラまかれている。歩くたびにじゃりじゃりと靴底をこする。


「お、ちょっとこの部屋入ってみようぜ」


 そう言うと、俺の返事を聞かずに近泉は微かに開いていた扉に手をやるとそのまま開け切ってしまい、中に入った。慌てて俺も後をついて行く。行動が早い。彼女は何か、焦ってでもいるのか。


「おぉ、外に比べるとやっぱそんな寒くないな……。しかもベッドとかってそのまんまなんだ」


 そこは一室だった。行為の部屋。一般的なホテルの一室と似ている……ように思う。ベッドと机、椅子がある。あとはテレビ置きだったと思わしき台に、浴室とトイレに繋がる扉があるのみだった。ベッドはマットレスやシーツが残っていた。残っていはするが、それだけだ。年月の経過により汚れ、くたびれ、カビが生えてしまっている。


「は、はー……こーいうところで、その、シてたんだな……ご利用のお客様方は……」


 感心か、関心か。

 近泉は顎に手を当て、興味深いものを眺める学者のようにカビて変色したベッドを照らし出し、見ていた。


「な、なあ──久之木」

「うん?」

「お前って……ほ、ほんとにシたことないのかよ……?」


 したこと。

 一瞬、近泉の質問の意味と言葉の内容が分からなかった。ただ、近泉の表情、微かに紅潮しているようにみえる頬と気まずそうに泳ぐ瞳ともじもじとした所作から、想像がついた。

 

「……ない」


 学校の同級生、しかも異性との、そんな会話。

 この場所。今は廃墟だが、元はそういう場所だったこの建物の中で。この流れは、どのような言葉に帰結するのか。予感はあった。


「へー……意外だ、やっぱ。まあ……わ、私も、」


 この空間を覆う、色。雰囲気の色。それが変わってしまったような感覚が今、


「処女、なんだけどさ」


 した。

 暗い部屋。カビたベッド。脆い木床。人の来ない場所。無人の廃墟。森の中。夜。男女。まさか、ここでか。


「……」


 制服のボタンを外す目の前の彼女。そういう雰囲気。

 

「なあ」


 あっという間に制服を脱いでしまい、机の上に置いた。近泉の上半身は下着のみとなった。寒々しい。すらりと伸びた手足は暗がりに蠢き、小ぶりな胸を下着が覆っている。背中に手を回し、俺を直視せず、ぽつりと近泉が問う。


「……なに?」


 言葉は冷静でいられた。だが内心は早鐘だ。近泉の行動は突然すぎて、まだ頭が事態に追いつけていない気すらする。ホックを外し終わったのか、ぱさりと胸が露わになった。


「お前のさ、机の中に前、手紙が入っていたじゃん?」


 手紙。机の中に入っていた手紙。

 それは忠言か。それともそれより前の、あの……差出人が分からずじまいだった恋文のことか。


「あれって、実は────わ」


 グシャ、という音が響き渡った。腐った木板が折れる音。誰かが、木床を踏み抜いた音だ。


「……な、なに、今の音」


 驚きに近泉がたたらを踏み、その勢いで抱き着いてきた。


「……誰かがいる」


 俺も、近泉も、踏み抜いていない。それに今の音、もっと遠くで聞こえた。この部屋は入り口からそう離れていない。


「服を」


 そっと制服を机からとって、近泉に渡す。


「わ、わるい……」


 近泉が制服の上を着る。

 静かに待った。

 再び音が聞こえるか、否かを。もし、聞こえてしまったのなら──ギィ、という音。足音。踏まれ、木の床が喘ぐ音。


 ギィ、ギィ、ギィ。


 段々と音が近づいてくる。


「ど、どうしよう……」


 俺たちは身体を寄せ合い、近づいてくる足音にどうする術もなくいた。

 こんな夜中に、こんな森の中、廃墟の中へやってくる人間がまともだと思うか? 自問する。答えははっきりとしている。まともなわけがない。


 息を殺し、待った。

 かたかたと身体が震えてすらいた。怯え、恐怖している。すぐそこには殺人犯がいるというのに。少し動き、見てしまえば、殺人犯の顔が分かるというのに、息巻いたところでいざその場になると俺は怯え切ってしまっていた。


 部屋のすぐ前までやってきた足音は、やがて、


 ギィ、ギィ、ギィ。


 去って行った。足音が離れていく。途中一度、グシャッという音がまた響いた。


「ドジかよ……」


 ぽつ、とそう呟いた近泉に、「相当なドジだ」と俺は小さく笑った。どうしようもない危機が去って行き、肩の力が抜け、それはそれは力のない笑みだったことだろう。


「あっぶな……いったい、なんだったんだ」

「分からない……ただ、助かったってことだけは分かる」

「だなぁ」


 もう危機は去った、はず。

 近泉は立ち上がり、ちらと俺を見て、「いやまあ、今の……私が服を脱いだところらへんのことは……忘れてくれると助かる」そう言った。


「……ああ」


 頷く。彼女が忘れられることを望むなら、そうすべきだろう。


「陽香と仲良くやってくれよ」


 と、そんな小さな返事が返ってきた。

 近泉が下着と制服を着用するのを待ち、俺たちは無言で部屋を後にした。そして入り口まで行き、置いていた鞄を取ろうと近泉のライトが照らし出したソレを見て──「お……」絶句した。


 入った時にはなかった。

 落ちてはいなかったソレ。

 俺たちの鞄の傍に置かれているもの。

 

 ──黒々としたものをこびりつかせた鉈、のようなもの。


「ほ……本当に、殺人犯だったんだな」


 震える声で、近泉。


「早く出よう」


 俺は近泉の手を引き、足早に出入口から出た。そのまま廃墟を後にし、森の中の曲り道まで引き返し、右に曲がった。

 ずっと無言で森を抜け出て広場に入り、椎尾真理の殺害現場を傍目に広場の入り口まで出た。『朝陽ヶ丘の森手前広場』なる名称が彫られたプレートが掛けられているその前で、


「……はぁ。さすがの私も、少し疲れた」

「俺もだ……でもよかった。出くわさなくて」

「まったくだねぇ」

「家まで送ろうか」

「そりゃありがたい……けどさ、遠慮しとくよ」


 そう、近泉。


「どうして。危険だぞ」

「猛ダッシュで帰ればいいのさ。私も、お前もな。それぐらいのスタミナは残ってるだろ。出遭ったときは鞄でぶん殴ればいいし」

「けど……」


 一人は危険だ。いくら足が速くとも、危険なのには変わりない。


「じゃあな。気を付けて帰れよー」


 引き留める間もなく、近泉は軽そうな鞄をぶんぶん振りながらさっさと走って行ってしまった。


「……大丈夫だろうか」


 仕方なく、俺も家へと向かった。

 真っ暗な夜道。けれど幸いに、誰にも会うことはなかった。

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