廃墟にいた
舗装された暗い路、明滅する心細い電灯。
左右は木々が満ちている。鬱蒼と陰って、奥の方は真っ暗闇。
「さすがに暗いなぁ……」
「だな」
左見右見しながら、近泉は心なしかゆっくりとした足取りで歩んでいる。その歩調に合わせ、いっしょに歩いていた。目の前の道はゆるやかにジグザグになっていて、先の方まで電灯のポツポツとした明かりが続いていた。森の切れ目は未だに見えない。
「そういえば久之木ってさ、この森の中の廃墟に行ったことあるんだろ?」
「だいぶ前にな。陽香から聞いたのか?」
「うん。確か……陽香と、久之木と、三択の三人だったって聞いた。そのときの探検隊のメンバーは」
そのとき、という言葉が指すものは、まあ当時のことに違いない。
「その探検の結末は、独断行動を取っていた俺が足を滑らせて後頭部を強打したっていうものだよ」
言葉に自嘲を含みつつ俺は言う。
あのとき、俺は陽香とレモンから離れて廃墟の中を行動していた。そして足場が脆くなっているところを踏み抜き、驚きで焦って足を引き抜いたところでつるりと滑らせて後頭部を打った。そこに運悪く出っ張りがあったのか、頭を切って出血。そして意識を失っているところを陽香たちに発見され、救急車を呼ばれて一命をとりとめた。……我ながら間抜けである。ドジの痕跡が古傷となって、今も後頭部に残っている。
「聞いた聞いた。死にかけたんだってな」
近泉が笑う。俺も笑った。
死にかけた、という重大な事ではあるが、もう過ぎたことだ。笑って話せるぐらいには過去なのである。
「いろんな人に迷惑をかけてしまったよ」
幼い頃の出来事だったが、まだ昨日のことのように思い出せる。涙ぐむ両親に叱られ、幼馴染たちは泣いていた。病院の先生や看護師さん達からは軽く窘められて、微笑みを浮かべられた。後頭部には傷が残り、そして病室では……あの、黒い影。
そこまでを思い返し、気付いた──異常の最初は、その場面だった。いいや……もう少し前だったか。頭を打った瞬間の記憶が曖昧でぼやけているが……俺はあの廃墟の中で、影を見たような……
「久之木。もうすぐだ。ここを左に曲がれば着くんだろ」
近泉に言われ、俺の意識は現在に戻る。
目の前には曲道があった。
まっすぐ進む小さな道と、左に曲がって木々の中に入っていく更に小さな道。後者に至ってはもはや舗装すらされておらず、砂利道だ。かろうじて電灯だけが生きている。
『パトリア』という文字が書かれたピンクの看板が、曲がり角の端っこに黒く泥土に汚れた状態で、木々に呑み込まれてひっそりとあった。パトリア。故郷。皮肉が効いている。自らというものが生じた最初の場所がこの先の廃墟となった者も、ひょっとすればいたのかもしれない。情交の後に受精し、そこが自らの始まり、故郷となった者が──死の、他にも。
「取り壊したりとかしないんだろうかな」
そう言うと、近泉は「聞かないな」と首を振った。「前に死にかけた子供も出たってのに」と彼女は笑った。
「それは本人の自業自得だよ。危険な場所を放置しているという点では擁護できないけどな」
そう、俺も笑った。
俺たちは曲がり角を左に曲がり、砂利道を進む。
すぐに、それは見えてきた。
森の中、ひっそりと佇む──ホテルのような外観の廃墟。
交わることを目的とした者達の為に用意された場所。見た目はホテルと変わらない。駐車場はない。車で来れるような場所じゃないからだ。散歩の途中で気軽に立ち寄ったりしていたのだろうか。催してきたから、ちょっと寄って行こうか。というように、トイレにでも立ち寄るかのような感覚で──実際どうだったのかは、もちろん分からないが。
「ら、ラブホテ、ル……なんだよな」
如何に俺と云えども、近泉にとっては異性である。そんな異性の前でその単語を口にするには少々気恥ずかしさがあったのだろう。
「だな。パトリアって名前の」
「ぼっろぼろだ……」
「ああ。ボロボロだ」
入り口、エントランスへ続くその扉は、ガラス製の自動ドアだった。ただ、もうガラスは割れていて、グシャグシャである。フロアにまで泥土が入り込み、床の上が汚れていたのを憶えている。
「お化け屋敷みたい……」
目の前にぽっかりと口を開けて聳えるその廃墟は、現在の暗闇も相まって、近泉の言葉通りまさにお化け屋敷に相違なかった。
中には化け物が潜んでいる、そう言われても不思議じゃない。
そこで。
ふと、思う。気付く。
──殺人犯ならば?
今。目の前の廃墟の中。
殺人犯が潜んでいる可能性は、ないと言い切れないのではないか。
誰も訪れない廃墟の中、ラブホテルの中の一室の中で息をひそめ、身を隠す。明日が訪れるのを待ち、あるいは暗闇に満ちるのを待ち、片手にはしっかりと凶器を握りしめ、傍らには……殺した者達のパーツを置いて。目をギラギラと光らせ、狂気に充血した視線で周囲を警戒し続ける。もし誰か訪れようものなら、口を封じるのも厭わない。そんな、人間が。
そこまでを考え、ぞっと全身が粟立った。
俺たちは今、自ら死地に飛び込もうとしているのかもしれない。
「近泉」
戻ろう、そう言いかけたところで、当の近泉が俺の方を既に見ていたのを知った。
「久之木、お前さ……陽香とキスしたことあんの?」
そして、そんなことを聞かれる。
いきなり何の質問。ここで聞くような質問か。
電灯の明かりが朧げに近泉を照らしている。への字口だ。むう、というような表情をしている。何かを待ち、不安に思いながらも待つ者の表情。
「……ない」
「その間はなんだよ」
「俺は誰ともない」
言い切る。言葉通りである。俺にキスの経験はない。
「誰かとしたいとか思わないの? お前なら、陽香とかとしてるもんだと思ってたんだけど。陽香のやつ、あんな様子だし」
「ないよ。誰かとしたいとかもなくて、陽香としたこともない」
「へー、そうなんだ。なんか、意外だ」
「なんで」
「いや、私ほんとーにさ、久之木と陽香ってキスや、その先までしてんのかなって思ってたんだ」
キス。そしてその先。目の前のこの廃墟内でされていたような行為。
「……なあ、中に入ってみない?」
にぃ、と目を細め、近泉が俺を誘う。
「……殺人犯がいるかもしれない」
懸念を、俺は口にした。
「あー……そりゃ、イヤだな。そっか、身をひそめるには最適だものな、こういうところ。盲点だった。ま、いいや。入ろうぜ?」
「まいいやって」
「いないさ。きっといない。私にはそんな気がするんだ」
気がする、というだけで入ってもいいものか。
「それにほら、私こんなこともあろうかと、持ってきてたんだ、ちょっと小さいけど」
と、近泉は制服のポケットの中から、手の平で収まるほど小さなライトを取り出し、光を点けた。心もとない。
どうやら入る気満々の様子。
「分かったよ。だが、あんまり深くまでは入らないぞ。足を滑らせて後頭部を打つかもしれない。今度こそ死んでしまうからな、俺」
本当にまた転んでしまったらシャレにならない。どれだけドジなんだ、という話になる。笑えない。俺の死を笑い喜ぶのは、俺を連れに来た死だけだ。
「そんときゃ私が走って助けを呼んできてあげる」
近泉はそう笑い、「ほら」と俺を手招いた。
行くしかないのか。ないのだろうな。
「……」
なんとなく、振り返った。
ついてくる者は、誰もいない。
「鞄はとりあえずここんとこ置いておこうぜ」
割れたガラスの自動ドアの隅っこを近泉が指さす。「ああ」俺と彼女は鞄を置き、廃墟の中へと入った。