日が経っていった
夢は見ていない。夜に目を瞑り、目を開けたら朝だった。
「おはよ」
部屋の中。椅子に座る陽香。
「……おはよう」
階段の下。洗面所から出てきた夕陽。
「おはよーおにーちゃん。朝ごはんできてるからー」
リビング。テレビを見ている舞。
「……ああ。うん。ありがと」
寝ぼけ眼で見た外は晴れていた。夜中までは降っていたのか網戸の隙間から冷えて湿った風が入ってきた。また今日が始まる。
◇
「なにかが足りないんだよね……」
休み時間、隣で美月さんが原稿用紙の束を前に頭を抱えていたため理由を尋ねると、そんな答えが返ってきた。原稿用紙には、『モールス信号─宇宙からの告白─』と題されている。彼女の書きかけのシナリオだ。タイトルの横には(仮)との添え字。未完成の証。
「なにかが足りないんだけど、なにが足りないのかが自分でも分かんない」
「……難しいな」
「頭の中でアイデアが浮かんではいるんだけどね、でも今のあたしにはそれが全部漂っているデブリにしか見えなくて、価値が見いだせないんだなぁ。銀河級とまではいかなくとも、恒星なみのアイデアが欲しいなーってねぇ、思うんだけど」
ううむ、と美月さんは再び頭を抱え、うなり始める。壁に行きあたっている彼女へいったいどのような言葉が適切であるのだろうかと頭を思い巡らす。
「考え続ければ時間が解決してくれるんじゃないか」
ふわっとした言葉しか出てこなかった。
「頭の中がアイデアのブラックホールや~……はぁ……」
相当追い詰められているのか、美月さんは妙なことを口走っている。創作に関する云々、申し訳ないが俺には何も思いつかない。
「霜月先生に聞いてみようかな」
「霜月先生に?」
「そ。あたしも最近知ったんだけど、霜月先生って宇宙にも詳しかったんだ。さすがは宇宙教師だよねえ」
宇宙教師とは? という俺の疑問を言葉として発する暇もなく、美月さんは二の句を継いだ。
「数学から転じて物理学、そこから更に天文、宇宙物理……と独学で勉強してるんだって。演劇部の先輩がね、友達から聞いたってのを聞いたの。『限りなく趣味の範囲でなんだけどな、本職の人にはとても敵わない』と笑ってたって。でもでもっ、数学教師の霜月先生なら、あたしたちよりももっと分かるんじゃないのかな、宇宙っ」
両手で握りこぶしをつくり、ファイティングポーズのように体の前に持ってきて身を俺の方へ乗り出してきている。美月さんは興奮している様子。
「時間あったら聞いてみよーっと」
ふへへ、と美月さんは満足そうに笑んでいた。
「あ、ところでね、久之木くんってお時間とかあるほうのお方?」
妙な質問に一瞬戸惑ったが、「ある」と頷いた。
「……読んでみます?」
に、と照れくさそうにはにかみつつ、美月さんが手元の原稿用紙の束を持ち上げる。「まだ八割ほどの完成度なのですがね」と一言。
「俺が読んでもいいのなら。しかも八割ってもう完成間近じゃないか」
「後の二割が長いんだよぅ……あたしが八キロメートル走ってゴールまであと二キロメートルぐらいだ、と思ってたら急にゼノンが亀とアキレスを放り込んできて『疲れただろう? 後は彼らに託そう。アキレスがきみで、ゴールが亀だ』と満足げに言ってくるような感じになるの。それじゃー追ーいつーけなーいよねー……」
美月さんのしょげっぷりを見るに、相当詰まっているようだ。ゼノンもはた迷惑なことをする。亀をゴールにしなければいいのでは、とも思う。ゴールが動いちゃダメだろ。
「ん……んぅ、ごめんね久之木くん。さっきの申し出やっぱりなし。完成してから読んでもらう」
「楽しみにしとくよ」
「英明くんのアイデアに期待するっきゃないかなー……」
英明とは? と一瞬考え、すぐに思い至った。久山のことだ。久山英明。眼鏡。図書委員。クラス委員。クラスメイト……にしても、美月さんは久山のこと名前で呼んでたっけか。呼んでなかった気がするが……進んだのだろうか。
まあ、久山とは順調に読み合い、意見の出し合いができている様子だ。なんだか微笑ましくなった。頑張れ、という気分になる。
「あのさ、みつ……深宇さん」
と思ってたら久山本人がやってきた。しかもこっちも名前呼びだ。やはり進んだのか。進んだのだろうな。名字から名前呼びになるなんて。しかも教室内。他のクラスメイト(俺)の前でだ。見せつけてくれる。
「んー? どしたの英明くん」
久山と美月さんは互いに名前で呼び合う仲ときた。
「えっと……読ませてもらって、少し思い浮かんだことがあって」
「ほんとー!?」
美月さんが立ち上がりキラキラした目で久山を見つめ、その手を握りすらした。驚愕に飛び跳ねた久山の眼鏡がズレていた。
「……ん?」
そんな二人の微笑ましい様子を何とはなしに見ていると、ぽん、と肩に手を置かれた。見ると、レモンだ。ふ……、と目を瞑り、口元を微かににやつかせている。
「邪魔しちゃあいけねえよオーちゃん。二人の邪魔をしちゃいけねえ」
分かったような口ぶりで、モヒカン男は「邪魔者は退散に尽きるぜ」と俺を促す。
「……言われなくとも」
惹かれ合う二人の邪魔などするものか。
俺とレモンは二人して立ち上がり、お幸せにな、と心で唱えつつ教室を去った。行き先など決めていない。
キーンコーンカーンコーン。
だがすぐにチャイムが鳴り響き、教室を出て廊下を十数歩進んだところで戻らざるを得なくなった。
「久山と美月さんって、けっこー良いカンジになってきたじゃねえのよ」
「だなぁ。まあ俺にはお前と茂皮さんも似たような感じに見えるがな」
「ばっ……!? 何言ってんぜオーちゃんさんよぉ、んなことあるわけないでしょうがよぉ……!?」
レモンの焦りっぷりが半端ない。意識はしているようである。やはりこの男にも春は近い。是非とも頑張ってほしく思う。幸せになれるのならなるべきだ。きっとそうだ。生きているのなら誰しも幸せになる権利と機会がある。それを義務とまで呼ぶと重荷になってしまいそうだから避けるが。
「も、戻るべ、さっさと戻って授業の時間ぜ。俺お勉強しなきゃならん」
「勉強するようなガラだったっけな」
「ばっきゃろオーちゃん分かってねえな。今までしなかったということがこれからもしない理由にはならねえんだぜ!」
そう、レモンは握りこぶしを作り如何に気合が籠っているかを示した。
「はははっ、頑張れよ」
「おう。頑張るぜ」
「応援してる」
本心だ。何を目指しているのかは知らないが、何かを目指しているのかも定かじゃないが、頑張ってくれ、と思っている。俺は心から、努力する幼馴染兼親友を応援する。
「オーちゃんもよ……なんつーか、前向きに生きてくれよ」
頭を掻き、照れくさそうにモヒカンは言う。前向きに生きてくれ、だなんていきなり妙な言葉をかけてくるものだ。
「あははっ、なんだその言い方は」
「いや、なんつうか、ほんとにおかしなことを言うかもしれねえけど、オーちゃん時々、見てるこっちが泣きそうになるような感じを出してるようなときがあるんだよ」
「なんだそれ」
「あー俺もよく分かんねえ、分かんねえけど、ただ俺が泣き虫なだけなのかもしんねえんだけどよ、なんか自分のこーふくを投げ捨ててるっていうか、そのケンリとか持ってねえんだって思ってそうっていうか……ってもうさすがに戻んねえとやべえっしょ」
俺たちはそそくさと教室に戻った。
幸いにも担当の先生が来ていなかったために授業の遅刻は免れた。
前向きに生きてくれ、か。
そう望んでくれるなら是非ともそのようにしたいが……なんだか、そうできる自信がない。おかしいな。俺は生きているし、前向きとは言わずとも後ろ向きでいるつもりはない。そのはずなのに。……自分というものの何かが、間違っているような気がしてならない。
「はは……」
思わず自嘲の笑みが零れる。
我ながらなんて漠然としたことを考えるのだろうか。己と云うものへ微かに覚える存在的な謬錯。思春期にもほどがある。
俺は人間だ。俺は生きている。俺は誰も殺していない。
なにも、まちがっていない。いないんだ。
……先生はまだ来ない。頭の中にはやはり思考が渦巻いている。何かが間違っているのだが、何が間違っているのか分からず、何も間違っていないのだと断定している。ワケの分からない、意味の分からないモヤモヤが……。
すると美月さんがそろりと顔を寄せてきて、小さな声で、
「そういえばね……あたしこの前、UFO見たんだぁ」
「え」
突然の衝撃発言に思考は吹っ飛んでいった。生きてるだの死んでるだのどうでもよくなるような言葉を耳にした気がするものだから。
「ど、どこでだ……?」
「えっとね、通りを歩いててふと空を見たら、びゃーって飛んでった」
「びゃーっと飛んで行った……」
「ちなみに見た目はアダムスキー型だったよ」
「すごいな……」
「すごいでしょ。やっぱりUFOってあるんだなって。今作ってるシナリオみたいにチップカード埋め込まれちゃうのかな、あたし」
「怖すぎるだろそれ」
えへへぇ、と美月さんは笑い、そこで先生が現われて、いつものように授業が始まった。