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稲達ヒューマンリサーチ(株)

「はあぁぁ……やっといなくなってくれましたか」


 影が消え去り、芙月が安堵の溜め息をもらす。

 入り口の開かれた扉の奥にはもう黒い影はいない。


「お帰りになったみたいだね。一安心だ」

「……あの影に帰る場所なんてあるんですか」

「影……? ああ、そうか」

「? どうしたんですか?」

「いや、なんでもないよ。……まあ帰る場所か、ないことはなく、あるのだろうとは思う。どこかは、私にも分からないが」


 淡々と無感情にそう言うと、稲達は「よっこらせ」と立ち上がり、何事もなかったかのように扉を閉めて鍵をかけると、キッチンの方へと歩いて行った。大方、コーヒーでも淹れるつもりなのだろう。芙月も軽やかに立つと、稲達の後ろをついて行った。キッチンのスペースは間仕切りの奥にある。来客用のスペースと分割されているのである。


「安心したら、甘いもの食べたくなりました」


 そんなことを言いつつ、芙月は冷蔵庫を開けようと手を伸ばす。


「夕飯がまだなのだろう? 舞に怒られるんじゃないか?」

「だいじょーぶです。プリンは別腹です。お夕飯もきちんと食べます。成長期ですもの、私」


 ははは、と稲達は笑んだ。


「あ。今、太るんじゃないかって思いましたねっ」

「よく分かったね」

「ほ、本当に思ってたんですかぁ……」

「理くんは太っているようには見えないよ。むしろ痩せ気味にすら映る」

「え、セクハラですか……?」

「フォローの言葉だと受け取ってほしいものだ」


 稲達の苦笑いに「分かってますよ」と芙月は冷蔵庫の扉を開けた。

 同年代の少女に比べて若干身体の小さな芙月の胸元にも満たない、──小さな、冷蔵庫である。この冷蔵庫とは、芙月がここに入り浸るようになった頃からの付き合いだった。中には、来客用の茶菓子とお茶等の飲み物が常に入っており、定期的に新しいものが仕入れられている。


「プリン冷やしてたんですよねー。駅のところのお店なんですけど……所長も食べます?」

「それなら頂こうかな。すまないね。理くんは、コーヒーは飲むかい?」

「はい。もらいます。ありがとうございます」


 二人分のカップを用意し、稲達はガラス製のポットにドリッパーを乗せ、英字の書かれた光沢のある赤い袋からコーヒーの粉末を入れてお湯を注ぐ。ドリップ式の、手軽なコーヒーである。電動ミル付きのコーヒーメーカーもあるにはあるが、完全にお客様用となっていた。


「いつも思いますけど、冷蔵庫ちっちゃいですよね」

「私一人だからなあ。大きいのは必要ないから処分した」

「え、処分って。てことは昔は大きい冷蔵庫があったんですか」


 芙月の言葉に、稲達は「まあね」とだけ答えた。それ以上は何も言わなかったため、芙月もそれ以上は何も訊ねなかった。


「ミルクと砂糖は入れるかい?」

「ブラックでお願いします」

「……大丈夫かね? 苦いと思うが……」

「む。私だってコーヒーのブラック飲めるんですよ、だってもう高校生ですからっ」

 

 強がっているような気もしないでもないが、「そうか」と稲達は苦笑しつつもブラックのままにしておいた。何やら鼻歌を奏でながら上機嫌にクリーム乗せプリンを皿の上に移している姪に水を差すわけにもいかない。

 出来上がったコーヒーと用意されたプリンを来客用の黒檀のテーブルに乗せると、「いただきます」と律儀に手を合わせ、二人は夕暮れのおやつタイムと相成った。


 日没は終わり間近。夕暮れは夕闇へと移り変わった。

 室内はいよいよ薄暗くなってきたため、ブラックコーヒーを眉間に皺を寄せつつも頑張りながら飲んでいる芙月を微笑ましい気分で眺めていた稲達はふと立ち上がり、室内の電灯を点けた。部屋の中は明るくなり、外の暗さがより引き立った。明るきは、暗きを強調する。


 コン、と一度、入り口の扉がノックされた。


「────!?」


 芙月が即座に反応し、一瞬遅れて稲達も気づく。悲しいかな、高校生とおじさんの反応速度の差であった。

 芙月と稲達が何かを言うでもなく、ガチャリと鍵が開けられ、扉が開かれる。

 ギイィ、という蝶番の錆びた音が、室内に響き渡った。


「うわ、うわわわ……」


 緩やかに開かれる扉。

 その奥から姿を現したのは。


「あら、芙月ちゃん。来てたのね、こんばんは」


 グレーのフォーマルなスーツ姿の、久之木夕陽だった。


「……はぁぁ。びっくりしたぁ。こんばんはぁ」


 力が抜けたのか、芙月がソファーの背もたれに背中を埋めた。稲達も、ふ、と笑みを漏らした。なんだかんだで、稲達自身も緊張していたのだ。


「……? どうかしたの?」


 当然、夕陽は事態が分からず、怪訝そうな表情。


「また、影が訪ねてきたのだよ」

「影が……」


 稲達の言葉に、夕陽が神妙に眉をひそめた。


「幸い、目的は私たちを見るだけだったようで、お帰りになられたがね。何か依頼でもあったのならすまない気持ちもあるのだがな。なにぶん、私は人専門の探偵なものだから」


 肩をすくめ、稲達は立ったままコーヒーを一口。


「コーヒー、飲むか?」

「ええ。頂くわ」


 夕陽の返事を聞くと、「分かった」と稲達はキッチンの方へ歩いて行った。


「芙月ちゃん。影はやっぱり、怖かった?」


 夕陽が芙月に問いかける。


「はい……めちゃくちゃ怖かったです。なんで私たちがこんな目に遭うんでしょうか。あの影はいったい、何が目当てでこんな寂れた事務所なんかに……」


 何が目当てか。

 その言葉に、夕陽はふふと笑った。いきなり笑った夕陽に芙月がきょとんとした顔で見つめていると、ゆっくりと夕陽は口を開き、


「大好きな人に、会いたかったのでしょうね」


 と、そんなことを言ったのだった。

 夕陽の笑顔には、ただ笑みのみが含まれているのではなかった。

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