『モルスの初恋』
27
昼休み。
時計台の聳える中庭のベンチに、桜花と穂乃果の二人は腰かけていた。二人きりで。傍からは仲睦まじいカップルとしか思えない様子で。昼休みになってすぐ、穂乃果が桜花を連れ出してきてここまで連れてきたのである。無言で、授業もロクに聞かずに何事かを必死に考えている桜花を見兼ねての行動だった。
晴天は陰ることなく二人の姿を照らしている。
「……」
相変わらず、桜花は無言である。何も言わずモソモソと、マズそうにサンドイッチに齧り付いている。
「オーちゃん、怖い顔で何を考えてるの?」
「怖い顔……? それ、俺のこと?」
「うん。あなたのこと」
心配そうに眉尻を下げ、穂乃果は悲しげな瞳で桜花を見つめる。そんな彼女の視線を受け、桜花は気まずそうに目を伏せた。穂乃果に云われるまで、桜花に怖い顔をしている自覚はなかった。
「静葉と、園田さんのこと?」
穂乃果の言葉は図星だった。
まさに今、桜花はそのことについて考えていた。もう少し詳しく言えば、そこに佐藤真理と花篠了の件を加えた──殺人事件、そのものに関して。
「……そうだよ。一体誰が、やったんだろうなって。この……この、殺人、事件は……」
言いつつも、桜花の脳裏には黒い影がいる。
教室の中で生首だけで踊り続けていた、
墓の前で生首と胸をくっつけ近寄ってきた、
そんな──化け物が、浮かんでいる。バケモノ、と桜花は影を認めている。識る限りにおいて前例のない、人のパーツを自らにくっつける異形だ。人じゃない。殺し続けているのはそんな化け物なのだ。非日常で、非現実で、非常識なことに──それは、事実なのである。
人間ではなく、更には地球上にも、宇宙にすらも──恐らくは現実という柵に囲まれている敷地の中のどこにも──いない空想存在が、園田咲良を殺し、更には小瀬静葉までもその手に掛け、ひょっとすると佐藤真理を殺しもした。この現実の中で!
……そういう事実が、存在する。
意味が分からず、ワケが分からない結果だ。犯人だ。あり得ない。到底あり得る話じゃない。空想が過ぎる。幻想に踏み込んでいる。錯覚だ。幻覚、幻視、幻聴……全部勢ぞろいの、狂人の夢みたいな光景だ。黒い影、幼い頃から見た黒い影が──犯人だなんて。犯"人"という言葉を用いるのは誤りなのかもしれない。人殺しの化け物と云う方が、まだ正しい。
桜花は首を振る。今しがた脳裏を過った悪夢のような現実光景を振り払うために。
「……殺人事件なら、探偵がいれば解決してくれるのかな」
パックのオレンジジュースを片手に、穂乃果は言う。
「この街に、そんな都合よく探偵はいない」
桜花は力無く首を横に振り、そう答えた。いてくれれば解決してくれただろうに。
残念ながら、未明ヶ丘市内において探偵なるものは存在していない。
「じゃあ、警察だね。警察ならきっとこの事件を終わらせてくれるよ」
穂乃果の言葉は、桜花を励まそうとしているのが瞭然だった。
「できるのか。できるんだろうかな。探偵ではなく警察が、そんなことを……」
警察は、黒い影を認識できなかった。小瀬静葉を殺し、園田咲良を殺したはずの影を、だ。いや、警察だけじゃない──桜花以外は、まるで影が見えていないかのように振舞っている。まるで影がいないみたいだ。実際には存在していないかのようだ。それじゃあ誰が、彼女たちを殺す? ……恐らく、四丁目公園の花篠さんというサラリーマンも、今回の佐藤真理に関してもそうだ。影が殺している。影が殺しているに違いない。影以外に誰が殺す? 化け物以外に誰が殺せる? あんな所業、あんな醜悪な姿を晒してまでして見せた化け物が、どうして犯人──実際はその表現は適さないのだろうが、便宜上『犯人』という呼称を使用する──となり得ないと考えられる? あれが人殺しでないと考えられる証拠がどこにある?
ない。ないのだ。あの化け物が犯人ではないとできる証拠が。
それこそ、実在の人物を犯人にでも仕立て上げない限りは。誰かが「私が殺したんだ」と名乗り出てもこない限りは。自動的にあの影が犯人となる。そしてそれは間違っていない。事実だ。だって殺したのだから。あの影が殺したのだから。誰が、殺した、彼女らと、彼を。それは影、影に違いない。違いない。違いない。あいつが殺した。あいつが絶対に殺した。俺は見た。見たのだ。見たのだから事実だ。現実だ。殺したあいつを、あの化け物を、バケモノをバケモノを、見た、殺した、あいつが……『犯人』、は、あいつ、だ。ほら、いる。今もいる。いるだろう。あそこに。時計台の前に。いる、影、いるんだ。バケモノが、人殺しの犯人が、影が、死が、俺を連れに来た死が……!
「────っ!」
ば、と半ば強引に、半ば無理やりに、桜花は両肩を掴まれた。そんなことをするのは、この場において一人しかいない。この場には桜花以外に一人しかいないのだから。
「……穂乃果、お前、なにを。どうして、泣い」
最後まで言う前に、桜花は抱き締められた。抱き締められるのは一人だけ。なぜならこの場にいる人間は桜花以外に一人だけ。道戸穂乃果、一人だけ。
「それはダメ。絶対にダメ。そんなことは許さない。私がゼッタイに許さないから……!」
泣きじゃくる穂乃果の言葉の意味が、桜花には分からなかった。ダメ。なにがダメ? 許さない。彼女はいったい何を許さない? 発言の意味が理解できない。彼女が何を言っているのかが分からない。
「オーちゃんが今見ていたところ、見ていたモノが何なのか私はちっともわからないけど、もうソレを見てはダメ!」
「ソレって」
「うるさい! どうせ見るなら私を見なさい!」
目から涙をポロポロ零し、本気で怒っている様子の穂乃果の口から、そのような素っ頓狂な言葉が飛び出してきた。驚きに、桜花は目を丸くした。言葉は何も発せない。
「私もよく分かんないけど、変なことを言っていると思うかもしれないけどっ、オーちゃんが今見ていたのはきっとダメなものなの。だってオーちゃん、ソレを見ているときの眼がギラギラと燃えてて、充血だってしてて、怖いなんてものじゃなかった、発狂した人みたいだった! 発狂した人なんて見たことないけど、それぐらい、怖かったんだもの……」
怒りを再び悲しみが塗りつぶしたのか、穂乃果の声の勢いは徐々に落ち、最後はぐすぐすと静かに涙を零すのみとなった。まだ抱き着いたままだ。
「……わるい」
「だめ。ゆるさない」
謝るものの、桜花は許されなかった。
「もうアレを見ないと約束してくれたら、ゆるす」
「見ないよ。もう、見ない」
そんな桜花の言葉に、穂乃果はようやく桜花から身体を離し、けれど両肩には手を置いたままで、「本当に?」と念を押す。
「本当だ。お前を悲しませたくない」
さらっとそんなことまで口にした桜花へ、涙目の穂乃果は少しく頬を染めつつも「私の為じゃなく、オーちゃん自身の為に見ないで」と更に念を押した。
「あはは……分かったよ。俺の為にも、見ない」
「……なら、いい。ゆるした」
穂乃果の瞳を直視し、今一度桜花は「わるい」と言い、間髪入れずに「助かった」と小さく付言した。助かった、という言葉は、ふと出てきたものだった。
「いいよ、もう怒ってないから」
涙の跡の残る瞳で、穂乃果が微笑む。その笑顔を真正面から直視し、桜花もまた彼女に倣って微笑んだ。切れ長の瞳が笑みに歪むのを、桜花がじっと、微笑ましい気分で見ていたら、
「あ、あんまりジロジロ見ないでよ……」
穂乃果にぷい、と顔を背けられてしまった。「恥ずかしいんだから」と小さな声が微かに聞こえた。
「ごめんな。無遠慮過ぎた」
桜花は苦笑し謝って、自分の分の紙パックのオレンジジュースに口を付けた。
28
死は見ていた。『私』は見ていた。
桜花が時計台の前の死に注いだ狂的な視線も束の間、傍らに座る穂乃果が桜花の身体を無理やり振り向かせ、身勝手強引に抱き着いたその光景。虚を衝かれて固まる桜花へ穂乃果がぶつけた怒りと悲しみの言葉の群れ。許す許さないだのと云う至極どうでもいい言葉の行き交い。見つめ合う二人。顔は近く、もう少し近づけば唇の触れ合う距離。見る者によってはそれは、二人が唇を合わせる直前の刹那と映るのだろう。
「なん、で……なんでなのよ、オーカ……」
死は嘆き、悲しんでいる。想い人の憎悪をすら超えた狂った視線に睨まれたかと思えば、目の前で抱き着かれて、慰められ、いちゃつかれている。
そんな死を見て、『私』は、思った。
なんて──可哀そうな子。
彼女はただ、想い人を想い、振り向かせるために努力をしているだけだというのに──ただ少し、今の見た目が気色悪いだけ。けどそれは直に解決される、些末な問題ごとだ。